大きなおばあちゃんの気配を感じた話
大きなおばあちゃんが亡くなってから、もう1年が過ぎた。感覚的にはついこないだのように感じる。
大きなおばあちゃんは同じ家に住んでいたが、少し離れたところにいて毎日毎日会うわけではなかったので、大きなおばあちゃんが亡くなって、何日かしてすぐに元の生活にもどった。 生活は元にもどったが、たまに大きなおばあちゃんの気配を感じることがある。
たとえば、大きなおばあちゃんがはなれから台所に顔をだす時に潜る丈の短いのれんをみる時や、すこんぶをみる時などだ。
すこんぶは大きなおばあちゃんが私の顔を見たときによくくれた。すっぱくてあんまり好きでは無かったけど、おばあちゃんが自分の横の引き出しから出してくれてたのを思い出して懐かしくなる。
気配を感じて、少し寂しくなる。 いくら気配を感じても大きなおばあちゃんとはもう会えないと思って、元の生活にすぐもどっておきながら涙も出そうになる。
だけど気配を感じてしまうと寂しい気持ちになるが、気配を感じることは良いことだと思う。
私がなぜそう思うかと言うと、大きなおじいちゃんのことがあるからだ。大きなおじいちゃんは私が小学5年生になる少し前に亡くなったが今までに1度も気配を感じたことがない。
それはなぜか、私は勝手にこんな風に思っている。大きなおじいちゃんは、亡くなる2年前ぐらいに体調崩し、入院を何回もしていた。
だけど、頭はとてもしっかりしていて最後まで話もしていたし、亡くなる前の日には好物だった刺身まで食べている位で「死ぬムード」を私は大きなおじいちゃんから感じれなかった。
人間はいつか死ぬんだと思っていたが、身近な人がいなくなってしまうこととは結びつかなかったのかもしれない。
だから、おじいちゃんがベッドに寝ることが多くなっても自分から話しかけに行く事は少なかったし、台所に顔を出すことが少なくなった大きなおじいちゃんの存在は私の中で少しずつ小さくなっていった。小さくなっていくことを大して気にしてもいなかった。
そして、大きなおじいちゃんは亡くなった。亡くなったおじいちゃんを見て「あぁ、本当に亡くなってる」と思った。
大きなおじいちゃんはもう亡くなるとこまで来ていたのかとその時ようやく気づいた。そして、顔を見た。眼鏡を外しているおじいちゃんの顔には沢山のシワがあった。このシワのある顔で笑う大きなおじいちゃんが目の前に浮かんできた。そうしたらすごく悲しくなってきた。もう二度と会えない。
亡くなるということを理解したのはこの時だった。死んでしまう前はおじいちゃんの存在がとても小さくなっていたのに死んでしまって存在が消えてから心に開いた穴はとても大きかった。
私は猛烈に後悔した。そして、もう一度大きなおじいちゃんを気配でもいいから感じたくて一生懸命に目を閉じて何かを何かと念じるように考えてみるのだけど、気配がしなかった。思い出を忘れてはいない。ただそこにいるかのようには思えなかった。
そんなことがあって、気配がしないと言うのは、自分の中で大きなおじいちゃんが生きている時に自分の中での存在が小さくなっていたからだと、勝手に思っている。
だから、大きなおばあちゃんの気配を今感じることができて少し満足している。大きなおばあちゃんが入院してからたくさん会いに行って心の3分の1ぐらいに大きなおばあちゃんがいた。だから満足している。ほんとに勝手な自己満足だ。おばあちゃんにとったら大した事ではなかったかもしれない。けれど、私は今感じている気配にこれからも支えてもらうと思う。そんな支えを得たことが今とても嬉しい。
(大きなおばあちゃん‥曽祖母、大きなおじいちゃん‥曽祖父)
この文章は私が15歳の時に書いたものです。実家の机から見つけた黒歴史のようなノートに書いてありました。でも大きなおじいちゃんとおばあちゃんのことを書いたこの文章は好きだなぁ大事にしたいなと思って書き起こしてみました。つっこみどころは多々ありますがほぼそのままにしました。
大きなおじいちゃんと大きなおばあちゃんと暮らした日々は私の財産です。大きなおばあちゃんの気配を感じることは今ではなくなってしまいましたが、確かにあの時感じた気配を大切に、あわよくばもう一度感じられないかな?と願いながらこれからも過ごしていこうと思っております。