運動神経と体育の授業
僕は体育が本当にできませんでした。
というか、球技ができないんです。いまだに。
その時の経験と体育の授業のない現在の生活とを比較して気付いた事を描きます。
体育の授業=球技(8割)
僕の記憶が正しければ、体育の授業のほとんどが球技でした。
バスケ、サッカー、ドッジボール、バレーボール。。。
正直どれも全然出来ないし、そういうのできないと足引っ張る形になるので周囲から白い目でみられがち。
しかも体育の授業は男子の花形だった(ような気がする)ので余計居場所がなくなる始末。
僕が学校をいやになった原因の一つだったきもします。
今思うと、球技以外はわりとできた気もします。しかし、嫌な記憶は濃く残る物なので総じて体育の授業は面白くなかったという印象が強いです。
社会に出たあとの体育(スポーツ)
社会にでてしまえば、授業なんてないです。
強制的に集団でいろいろな事を同時にさせる。企業によってはあるかもしれませんが、基本分業制で今自分の手元に回ってきた仕事を回すケースが多いはず。
趣味・趣向も自由、それを脅かそうとするものがむしろ淘汰される時代だと思います。
社会においてスポーツで周囲に評価させる唯一のポイントは"継続できてるかどうか"。
何年も継続していればそれなりに周りは一目置くし、自分自身の自信にもつながります。
やらされるってい概念が存在しないのです。
大人になること
そう考えると大人になることは楽しいと思います。もちろん自由度の高さは責任が伴いますが。
そして自由な楽しさを感じるのは教育の世界で息苦しさや自由なようで不自由な学生という立ち位置から解放されるからというのもあるかもしれません。
年を取る事は素晴らしい事です。体力は衰えるかもしれませんが、経験や知識を応用した世界の見え方、全く過去には想像しなかった情景が広がっています。
日本の教育
別に日本の教育を批判したりする立場にいませんし、そんなに教育体制を理解してません。
ただ、過去のストレスや葛藤って意外に自分の中でプラスに昇華されるもののような気がします。
きっとこれからもそう。
辛い体験や時期が人を成長させるんだから。