みんな口をつぐむ「トランスジェンダー」と「GID」、そしてフェミニズムの問題
現在、多くのサイレントマジョリティは、トランスジェンダーの問題に対して、「よくわからないけど、とにかく触らぬ神に祟りなし」と感じていることでしょう。
「マジョリティがそう思うこと自体がマイノリティへの差別」と思うような人権意識が高い当事者やアライの方もいるかも知れません。
しかし、個人的には、想像力と他者への配慮が行き届いたアライさんよりも、「最新の流行をおさえているクールな自分」に酔っているアライさんの方が多いような気がしていますし、「マジョリティーの傲慢」としてシスへテロの人たちの口を塞ぐことは分断の溝を深めるだけだと思っています。
いままで私は、トランスジェンダーの問題に関してはインターネットで発言することは控えていました。
TRA(※1) 側もTERF(※2) 側も、批判を超えたオーバーキルが目立ち、集団通報によるSNSアカウントの凍結から講演会のキャンセルまで、オンライン上の嫌がらせだけでなく、リアルの仕事まで奪うキャンセル・カルチャーが横行する領域とは関わりたくないと思っていたからです。
しかし、近年政治的議題として頻繁に目にするようになったトランスジェンダーの問題、とりわけ、15人全員の裁判官が違憲だと判断した「性別変更の手術要件」に関する最高裁の判決を見て、もう「TRAとTERFの問題」という状況ではなくなったのだなと思うにいたり、考えていることを書き記すことにしました。
身体を治療して埋没したいGID/流動的なアイデンティティを提示したいトランスジェンダー
そもそも、GIDとトランスジェンダーは基本的には仲が悪いです。
ここまでトランスジェンダーの問題が世の中で騒がれるようになっても、それすらあまり知られていないということ自体がおかしなことだとは思いますが。
90年代や2000年代初頭までのクィアやトランスジェンダーに関する書籍では、手術による性移行を伴う「トランスセクシャル」と「トランスジェンダー」は区分が分かれることが多い印象でしたが、国際的なアクティビズムにおいても徐々に、「トランスジェンダー」という概念が「LGBT」の「T」を代表し、性別違和に関する様々な差異を包摂するようになったと感じています。
GIDとは?
GIDとは、少し前までは性同一性障害、今では性別違和や性別不合といわれている、「出生時の性別とは異なる性の自意識を持ち、自身の身体の性別に継続的な違和感を持つ」状態を指します。
「WHO」の現在の診断基準では「性同一性障害」は「精神(心)」の疾患ではなく「身体」の疾患であり、ホルモン治療やSRS(性別適合手術)は、当事者の心に合わせた身体の形状に治療するものとされています。GIDの意識が強い当事者の多くは、医療のガイドラインに沿ったホルモン、改名、手術の実施を受け入れ、基本的に男女二元論に基づく性別移行を求めることが多いです。
GIDを自認するのは基本的には移行した性別にパス(※3)し、埋没(※4)して生活したい人たちです。こうした人らはアクティビズムをすると「埋没」が叶わなくなることが多いので、一部過激なアクティビズムやクィアなパフォーマンスとは距離を置きがちです。
それに対し、アイディンティティの流動性、性の多様性やクィア性、トランス性そのものを重視し、ホルモンや改名、特にSRS(性別適合手術)にこだわらないのが狭義の意味で「トランスジェンダー」の人たちです。
トランスジェンダーとアクティビズム
トランスジェンダーの中には、「性同一性障害/性別違和/性別不合」という医者の診断が当事者の生と性、生活を左右する審判になることに批判的で、医者はトランスジェンダーの「ゲートキーパー」になるべきではないと、脱医療化を目指す人たちもいます。
ジェンダーフルイドやデミセクシャルなどアイデンティティの流動性やレス性が強い人や、「くたばれGID」など、一部過激なアクティビズムやクィアなパフォーマンスを好む人もいるため、GIDの人たちとは考え方が異なることが多いのです。
なお、「約2年間」の継続した性自認が診断の基準となるので、男性と女性、そのどちらでもないX性などを行き来するジェンダーフルイドや、複数の人格が頻繁にスイッチする解離性同一症(いわゆる多重人格障害)、統合失調症における妄想などは、診断ガイドライン的には「性同一性障害」の基準から除外されています(実際の運用面ではわからないですが)。
TERFの訴えは差別であると一蹴して良いのか?
他称TERF、生物学的女性の固有性と、被害を受けやすい属性としての女性の安心感を重視するジェンダークリティカルのフェミニストたちは、一部過激なアクティビズムやクィアなパフォーマンスを支持するトランスジェンダーに否定的です。
生物学的女性の固有性に敏感な彼女たちとトランスライツアクティビズムに親和的なフェミニストは、SNSの中だけでなくアカデミズムや出版の世界においても対立しています。
他称TERF、ジェンダークリティカルのフェミニストたちは、実際の犯罪発生数やデータからわかる安全性よりも、体感治安や安心できるイメージを優先しがちであり、しばしば、生物学的女性という性別を被害者性、生物学的男性という性別を加害者性に還元するような極端な考え方をするので、その部分に関しては私個人の考えとは相容れません。
しかし、アメリカワシントンの韓国系女性スパが、性別適合手術を受けていないトランスジェンダーからの苦情を受けた裁判に敗訴し、手術前のトランス女性を許可すべきとの判決が出た例や、日本でも直近、三重の複合温泉施設の女湯に侵入し逮捕された容疑者が、「心は女なのになぜ女湯に入ってはいけないのか」と供述した事件などもあるため、防犯・安全上で懸念を持つこと自体には同感です。
自民党の稲田朋美氏は、今年4月2日Twitter(X)に「心が女性で身体が男性の人が女湯に入るということは起きません」と投稿していましたが、実際にそうした事件は起こったわけです。
犯罪者が言い訳に使うのであれば、トランス女性やGID女性もただただ迷惑を被っているだけなのですが、集英社オンラインの取材では、
とあるため、現時点で「犯罪者の言い訳」「犯罪者が自己正当化のためにトランスジェンダーを語った」として一蹴することはできないでしょう。稲田氏は夕刊フジの取材に対し、「事案の詳細を承知しませんが、(LGBT)理解増進法とは関係ないようです」と回答していますが、事案の詳細を知らないのなら、理解増進法と無関係と断定することもできないはずです。
また、現在は厚生労働省の基準で公衆浴場の区分は生物学的男女の性差を基準にしていますが、トランスジェンダーの戸籍性別変更の手術要件違憲だけでなく、外観要件も違憲となれば、「法的女性の中で一部の女性が女湯に入れないのはおかしい」という論点が出てくることは、容易に想像できます。
最高裁の判決によって起こる「拡張」と「不和」
10月25日、最高裁は、トランスジェンダーの戸籍の性別変更に際し、生殖能力を失わせる手術を受けることを義務づけるのは違憲だとしました。
より正確に言えば、15人の裁判官全員が不妊要件を違憲とし、外観要件に関しては15人中3人の裁判員が違憲と判断しましたが、結果的に高裁に差し戻されている状態です。
これにより、手術なしでの戸籍上の性別変更は可能となり、「法的女性」の領域が拡張することになりました。
今まで、「法的女性」とは、シス女性と戸籍変更オペ済GID女性を指すものでしたが、最高裁の判決により未オペトランス女性も戸籍変更できるようになったのです。
あまり大きな声で叫ばれることはありませんが、これ自体が、完全な「埋没」を目指すGID性の強い人にとってはあまり望ましいものではなく、人によっては後退と感じる人もいるのです。これまで単に「(法的)女性」として不毛になっていた領域に「シス/トランス」「生物学的女性の生殖器/生物学的女性ではない生殖器」という視線のメスが入るからです。
新自由主義と福祉・ケア
新自由主義と福祉・ケアにおける問題については前回の記事でも少し書きましたが、この問題に関してもまた、新自由主義と福祉・ケアの問題は交錯しています。
医療・ケアの積極介入とデトランスの問題
マイノリティ当事者への福祉・ケアであれば良いことなのだから、性別違和を抱える子供に対しても、思春期ブロッカーやホルモン治療、SRS(性別適合手術)含めて積極的に介入すべきか否かは難しい問題です。
日本より包括的性教育やトランスアクティビズムが盛んな英米では、思春期にトランスジェンダーだと思いホルモンや手術など(一部)不可逆の医療行為を受けたものの、後々になって違うことに気付きそれを後悔する。いわゆる「デトランス」が問題化しています。
「デトランス」が問題化する背景には、2つのポイントがあります。
1点目は、そもそもホルモン治療や手術は不可逆な面があるからこそ、早期ホルモンや手術ができなかったことを後悔する当事者がおり、ゆえに「早期ホルモン治療や手術」含めた医療の積極的介入を求める声が上がるということです。
2点目は、包括的性教育の推進や積極的なアクティビズム、理解のある親や環境が、性別違和を抱える子供を積極的に後押ししすることの功罪という問題です。
この2つの条件がそろった状況は、GID性の強い子供にとっては「恵まれた環境」となり得ますが、流動的なトランス性や、思春期のゆらぎ、なにか特別の存在でありたいモラトリアム(厨二病)の子供にとっては、「周りに応援してもらっているので後に引けない」という事態になりかねないのです。
美容医療とトランス医療の近接性
出生時の性別と異なる性別の「パス度」を上げる行為と、美容医療やエステは実質的に重なっています。
例えば、腕やスネの脱毛は、GIDやトランス女性にとっては「治療」とも捉えることができるので、医療保険適用を求める声もあります。
しかし、多くのシスジェンダーの女性は脱毛を審美的な施術として自腹でやっているため、GIDやトランスのみ保険適用という発想には不公平感を感じるかもしれません。
アンチルッキズムを主張するフェミニストは、普段自分たちが「脱毛広告は女性はこうあるべきと規定する。ステレオタイプの助長」と批判していることと、整合性がとれなくなります。
医療行為における「治療(保険適用)/審美治療(保険適用外)」の線引は「名目」により異なるので、同じ術式であっても、眼瞼下垂や逆さまつげ治療であれば保険適用だが、理想の二重を手に入れるためであれば適用外となるなど、実際には線引がグレーな部分もありますが、トランスであれシスであれ、体毛問題に関しては「不快感に感じる人にとっては不快感」ということに変わりありません。
美容整形の自由と自己責任の問題と同様に考え、トランス手術の失敗や後悔も自己責任ということで良いのでしょうか。
公的補助や福祉にまつわる問題として考えるなら、不正利用の問題も避けて通ることはできません。
「性」の問題の政治化
このように、様々な問題が複合的に絡み合う中で、近年は性の問題、アイデンティティ問題の政治化と、政治的対立の激化が起こっています。
日本においても、共産党や立憲民主党、社民党などのジェンダー政策は、しばしば議員によるクレームや炎上騒動、キャンセル・カルチャーという形で噴出します。
性や生が政治の道具になることで、当事者の実態よりも「メディアに描かれた当事者」に注目と関心が集まります。
学校教育とトランスアクティヴィズム
近年、お茶の水女子大学や奈良女子大学など、高偏差値国立女子大を筆頭に、「トランスジェンダー」として、トランス女性とGID女性を受け入れる流れができています。
大学に入学する多くは未成年、アカデミア自体アンチルッキズムなので、トランス女性とGID女性で線引きはできません。
学生の「パス度」を鑑みること自体が、教員によるアカデミック・ハラスメントやセクシャルハラスメントとみなされる可能性もあるのです。
そのため必然的に、トランスジェンダーとGIDの実際的な差異や対立が言及されることは少なくなり、GIDは包括的なトランスジェンダーの傘下の一つとして位置づけられるだけになるでしょう。
左派アカデミックフェミニストは、大学という構造的にもTRAに味方するしかないのです。
また、そもそもGID性が強い人の多くは移行した性別に「埋没」して生活したいと考えているので、言論空間においてもトランス性が強い人の言論やパフォーマンスの方が可視化されやすいでしょう。
アカデミックフェミニズムにおける第三波/第二波の対立
この問題に関して興味のない方には、「大学のフェミニストどうしがなんか内ゲバしてる」としか見えないでしょう。
フェミニズムには第一波から第四波までの流れがあり、現在日本の大学でフェミニズムを教えている中心世代は、1970年代に性と生殖や生物学的男女の分業(労働と再生産)問題を中心に盛り上がった第二波の世代と、1980年代以降にアイデンティティや文化の問題を中心に盛り上がった第三波の世代です。
とても大雑把に、やや露悪的に傾向や特徴をみると、
「男/女」の生物学的(本質的)差異を、そのまま「加害(男)/被害(女)」に置き換えがちな第二波。
文化やジェンダー構築性やインターセクショナリティに全振りし、男女の生物学的差異や定量データを軽んじがちな第三波。
というカテゴライズができます。
第二波の「加害/被害」も、第三波のインターセクショナリティ(交錯性)も、「被害者への共感」「情動」に依拠し、法と客観的事実を超えたポスト・トゥルース的なムーヴメント(司法の手続きを超えて告発する「#MeToo」が象徴的)に積極的に乗っている点では類似性があります。
ちなみに、私個人は、どちらのフェミニズムにも乗れず、「共感」「情動」に依拠しない、ファクトベースのフェミニズムが必要だと思っており、マイノリティの視点から、シスヘテロセクシャルという圧倒的なマジョリティの欲望と無意識や生物学的性差を把握しつつ、文化の構築性を変数として観測するようなスタンスでやっていきたいと思っているのですが、どうやら現在のフェミニズムの中では圧倒的マイノリティのようです。
話が逸れました。
第二波フェミニズムと第三波フェミニズムで大きく価値観が異なるのは、生物学的「男/女」の対立を階級格差に置き換える第二波と、ポストコロニアリズムや多様なセクシュアリティ、階級と文化の差異など、複合性と網羅性を重視する第三波という部分です。
それは、トランスジェンダー問題への向き合い方の差異にも繋がり、第二波系のフェミニストが生物学的女性やGID性の強い女性の安心安全の問題に強くコミットするのに対して、第三波系のフェミニストは流動的なトランス性や文化の構築性、マイノリティの中でもさらに焦点の当たりづらい差別の問題に強くコミットします。
だから、必然的に対立は起こります。
シスとトランスの身体、リプロダクティブヘルス&ライツの問題
リプロダクティブヘルス&ライツとは、政治や社会に左右されず性の健康、情報、手段にアクセスし、自己決定する権利であり、妊娠や出産など身体の実機能や疾患の問題も扱う分野です。
「トランスジェンダー」の問題が、政治的対立、アカデミックにおける対立となるとき、リプロダクティブヘルス&ライツの問題は忘却されがちです。
シス女性とトランス女性の身体が置かれている状況は異なります。人間の能力は男女差よりも個人差の方が大きいと言っても、生物学的男女身長体重の中央値には大きな乖離があり、かかりやすい疾患なども異なります。
例えば、日本の女性がかかるがんのなかで罹患率がトップなのは乳がんであり、男性乳がん患者は全体の1%といわれています。オランダの調査では、トランス男性の乳がん罹患率はシス女性と比して0.2倍と低く、トランス女性の罹患率はシスジェンダー男性と比して46.7倍と高いという結果が出ています。この数字を整理すると、乳がん罹患率はシス女性が最も高く、次にトランス男性、トランス女性、最後にシス男性の順になります。
シス男性やトランス女性が子宮がんを罹患することはありません。
トランスジェンダーの健康状況は、生物学的女性/男性と同様の基準では計測できないでしょう。
その上で、必要とされるのは、生物学的性別に個々のホルモンや手術などの影響が加味された状態を把握した上で、差別されることなく安心して医療、ケアを受けられる環境が整うことではないでしょうか。
個人的には、「トランス女性は女性です」など、ただ差異をうやむやにするだけの言葉が先行し、シス女性やトランス女性のリプロダクティブヘルス&ライツの問題が無化・忘却されることがないことを願っています。
社会の問題?自分の問題?
「個人的なことは政治的なこと」というのは第二波ラディカル・デミニズムのスローガンですが、個人のアイデンティティは普遍化できないからこそ特有の一個性を持つのであり、ゆえに個人のアイデンティティの問題は社会問題に還元され得ません。
性の問題は個人の最もプライベートな問題であるからこそ、差別が起こったときに是正されにくいというのはその通りかもしれませんが、公的問題になれば解決することでもないでしょう。
トランス/GID/シス女性をめぐる争いは、風呂やトイレの問題を超えて、「あるべき人間像」「あるべき男性/女性像」をめぐる問題なので、今後もしばらくは争いは起きるでしょう。
正解がない問題ですし、正解がない問題であるからこそ、安易にヘイト認定や政治的対立の問題になることは建設的ではないと思っています。
最後まで読んでくださりどうもありがとうございます。
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ちなみに、近年のフェミニズムポジショニングマップに柴田のスタンスを記載するとブルーの部分になります。
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