新潮文庫『レミゼラブル』一つ目!
全5巻ある新潮文庫のレミゼラブルを読み始めて、1巻目を読み終わった。
これはすごいぞレミゼララブル
真実とは異なることなのに、一部の声から始まり、世間が次々に一部の声へと賛同していく様が、あまりにも私には愚劣な行為に思われた。
司教の光に触れてから、正直に生きようと5年間もの間、正しい人間であろうと人のために尽くしてきたという事実があるにも関わらず、過去罪人であったという事実によって、これまでの5年間が皆無になってしまった場面が何とも苦しかった。
世間がジャンバルジャンから受けた恩恵は本物であるにも関わらず、罪人であったという瑣末な事実のみで、彼の行為は忘れ去られてしまうのかと悲しい気持ちになった。
本を読んでいて悲しい気持ちになったのはそうだけれど、何より私もその世間を構成している一人であるという事実も悲しかった。
特に私は、他人と自分を比べる癖があったり、人に流されやすかったりする性質があるため、文章として読んでいる時には、世間が何よりも嫌なものに見えていたけれど、実生活ではそれが私であるという事実が何だか苦しかった。
自分の目で見たこと・聞いたこと・体験したことは、私自身の中では事実であることに変わりはないのに、人の言葉を根拠として私が体験した事実を皆無にしてしまうのはどうなのかしら。
人はそれぞれ自分の世界の中でしか生きていないのだから、誰かに与えられた噂話で自分の世界を構成してしまうのは勿体無いな。
何だかこれは最近の芸能人の不祥事系にも言えることのような気がして、舞台俳優としてキラキラ輝いていた俳優が、実は彼女がいてDVやってて、世間がめちゃくちゃ叩くみたいな。
確かにその事実の裏には、しんどい思いをした人や嫌な思いをした人がいるかもしれないけれど、でも私がその俳優を通して体験した楽しいという気持ちであったり、エンタメの感動みたいものは虚構であったかといえば、そうではなくて、その人間に救われたことがあるのは事実だし、楽しかったという事実に変わりはないよなと思ってしまうのだが、これってあんまり良くない考えなのかしら。
それらに私自身が救われたということは忘れたくないし、その事実をなかったことにしてほしくないなとも思う。
私は、私が救われるために楽しいことや感動するものを追い求めて、心を豊かにしているし、誰も介入できない私の世界を私は生きているのだから、異論は認めません。
何はともあれ、私はこれまで私が大変して、感銘を受けてきたもの・恩恵を受けたもののことは忘れたくない。
また、それを揺るがすような大事件が起きた時には、自分の体験したことを忘れないようにしながらも、自分の頭を使って一つずつ選択をしていく必要があると思った。
自分の頭を使えず、世間の声を迎合するようになってしまったら、私は人間をやめたことになってしまうような気がするので、何を自分の中の真実にするのかは、拙い頭でじっくり考えてみようと思う。