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カレーとギークと浅草橋
浅草橋のコワーキングスペース「技研ベース」では、ランチにカレー、午後にかき氷と、さまざまな飲食サービスも行っている。
WiFiと電源完備で、スポット利用も可能。
久しぶりに遊びに行ったらカリーギーク(技研ベースのランチ限定カレー屋さん)の定番メニューであるポークビンダルカレーがマイナーバージョンアップしていた。
カレーとギーク、一見全く関係なさそうだが、日本のギーク文化の草分けとなった月刊ASCIIの元編集長である遠藤諭氏がギークの間にカレー文化を広めたと僕は勝手に思っている。
僕が長岡の中学生だった頃、月刊ASCIIには毎月うわ言のように「アジャンタのチキンカレー」とか「アジャンタのキーマカレー」みたいな文言が何かとプログラムのサンプルコードとして使われていた。
これは、ユタ州立大学のティーポットやスタンフォードのうさぎみたいなものでアジャンタのカレーというものが、日本のある時期の(とりわけ76世代の)ミームとして存在したことは間違いない。
実際、僕は上京して3年くらいはアジャンタがどこにあるのかも知らなかったし、実際にアジャンタに連れて行かれた時にログインの編集長だった河野真太郎さんがカレーを食べているのを目の当たりにして衝撃を受けた(その頃、河野さんとは面識がなかったから尚更だ)。
ただ、アジャンタのカレーは美味しいままなのだが、時代の変遷とともにカレーが一大ブームとなり、もはやアジャンタよりも親しみやすいターリー屋とかのインドカレーの方が有名になってしまって、アジャンタとかアショカとか言ってもみんな「なんのことやら」という感じになって久しい。
ターリー屋の創業は2002年なので、むしろ21世紀になってからギークになった人はアジャンタなど知らないのだろう。
アジャンタのカレー自体も、昔は「なんつう辛さだ」と舌を巻いていたのだが、今は割と「普通に辛い」くらいになってしまって、それは自分が辛さになれてしまったからなのか、それとも時代に合わせてアジャンタがマイルドになってしまったのかわからないが、今でも月に一度はラジオのレギュラーの仕事でアジャンタの前まで行くので「帰りにアジャンタ寄ろうかな」と思いつつも「一人で行くもんじゃないしな」と思ってそのまま帰るのである。
そういう意味では最近あまり「辛いカレー」を食べてない気がする。
意図的に避けているのか、いや、そんなことはないはずなんだけど。
かといって、ラ・ホールのカレーの辛口は辛すぎて頭痛した思い出があって再びチャレンジしようという気持ちにもなかなかならない。難しいところだ。
その意味ではカリーギークのカレーは特段辛いわけではない。
最近辛いものといえば麻婆豆腐とか坦々麺とかの方が多いかなあ。
それは一体どういうことなのか。僕が辛いものを避けているだけなのか、それともカレーを昔ほど辛く感じられなくなっただけなのか。
そういえば味覚の感じ方が人それぞれという「好み」の違いはどこから発生するのだろうか。
僕は動物を飼ったことがないが、たまに聞く話では「うちの猫のニャン太郎はアレが好き」とか「うちの犬のジョンはあれが好き」とか、犬猫でも味の好みがあるらしい。
この「味の好み」とはどこから発生するのか。
これについて広範囲に調査した論文についての噂話すらあまり聞いたことがない。そもそも食べ物を食べるとか食べないとかというのは、栄養学みたいなものはあったとしても、美食学みたいなものはあまり聞いたことがない。
好みの問題に終始するとしたら、それが学問とは呼べないことは間違いないが、もしも量子生物学がそこに応用できるとしたらどうだろう。
まず第一に、人間を含めた生物が、空間中の「匂い」を察知できるという原理そのものに量子生物学は大きく関わっている。というか、量子生物学でなければ、「なぜ匂いを検知できるか」を説明できない。
そして、味覚というのは五要素(甘味、塩味、旨味、苦味、酸味)と痛覚(辛味)、麻痺(痺れ)を除けば、ほとんどは300種類程度の臭い物質の組み合わせで構成されている。
そして食べ物とは直接関係ないが、ヒトが好ましいと感じる他人の体臭(フェロモンなどとも呼ばれる)は、HLA血液型が異なる割合が高い方が良いという説もある。
ということは、味覚の「好み」の大部分は遺伝的に決定されていると考えてもいいのではないか。
「辛いものが苦手」というのは、痛みに弱い人、なのかもしれないし、「辛いものが好き」というのは、痛みに鈍感な人、かもしれない。
少なくとも酒が飲めるか(アルコールを消化できるか)がアセトアルデヒドの分解能力と相関があり、体質的な問題(つまり遺伝子的な問題)であることはわかっている(遺伝子的な問題は遺伝的な問題ではないことに注意)。
つまり、「この人はこれが好き」も遺伝的に決定されている、または潜在的に遺伝子的な影響を受けているのはそれほど不自然な考え方ではないだろう。
カレーがかなり多くの人々に受け入れられているのも、辛味が弱くてもスパイスによって香りを楽しんだり、ベジタリアンであっても楽しめたり、酒が飲めなくても楽しめたりするという懐の広さ故ではないだろうか。
要は、遺伝的な好き/嫌いの中間値を取るとカレーになるのではないか。
カレーが嫌いな人というのはまず見かけたことがない。辛いものが苦手な人はいくらでもいるが。
これから先、量子デバイスの開発が進めば、人間並、いや、犬並の嗅覚を持った量子センサを手に入れたAIが、人間以上に食べ物の味(つまり匂い)を数値化することができるだろう。
そもそも神永がプランクブレーン内で座標を特定できたのも、人間の放つフェロモン(匂い)が、個人(HLA血液型及びDNA)によって大きく異なるからで、数値化できないどころか最初からデジタルデータ(DNAの塩基配列)で決まっているのだが、まあそれはどうでもいい。
そう考えると、なぜカレーや小麦が多くの人に受け入れられるかというテーマは、ダイバシティの点から見ても、量子ガストノロミー的な視点から見ても、非常に興味深い、探るべき価値のあるテーマなのではないだろうか。
まあ量子ガストロノミーみたいな寝言を言ってるのは今のところ僕しか知らないが、それが量子力学的なものかどうかであるかよりも、既存の枠組みに量子力学を適用してみるという態度が重要なのではないかと思う。
ひょっとすると人間がくじ引きを好きなのも、量子力学的な理由があるのかもしれないしな。そういう場合は量子ゲームメカニクスとでも言うのだろうか。量子心理学とか訳わからない本もあるしな。
でも、人間や生命の存在を量子力学的に捉え直すという枠組みはここ百年の流れだし、人間が心理を持っていると仮定すれば、その働きが量子力学で説明できるはずだというのは普通のことなので、量子心理学ももう少し真面目に分野として立ち上がってくればいいのにと思う。量子心理学のような考え方が確率されれば、結果的にAIはより正確に人間社会の未来に対して予言できるようになるだろう。
それは心理歴史学みたいなものかもしれないし、もっとマシなものかもしれない。
人工知能を作る試みというのは、結局、「知能とは何か、生命とは何か、どこまでやれば知能のように感じられるか、生命のように感じられるか」という問いに対して、「知能ってこんなもんじゃね?」「生命ってこんな感じじゃね?」と何かしらのアウトプットなりモデルなりを作る仕事なので、まあ、面白さは底なしだよな。