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コインで辿るフランス革命 | ロベスピエールとは何者だったのか

今回はマクシミリアン・ロベスピエール支配下のフランスで発行された一枚の貨幣と共に、フランス革命とロベスピエールという人間について追いかけていく。青年が思い描いた夢はいつしか歪み、恐怖政治によって人々を苦しみに至らしめた。ロベスピエールとは何者だったのか。

自由、平等、友愛が声高らかに掲げられたフランス革命。彼らの影響はその大きな代償と引き換えに瞬く間に伝播し、世界は封建制度の時代の終焉を迎えた。という、ある種の美談になっているが、世界はこの多大なる犠牲を払って本当に自由、平等、友愛を果たして実現できたのだろうか。

ロベスピエール支配下の貨幣
祭典記念5デシーム黄銅貨

フランス革命による死亡者は、推定200万人とされている。この死者数が第一次世界大戦と第二次世界大戦を合わせたフランスの死者数に相当すること、そして、革命当時のフランスの人口が2,700万人ほどだったことを考えると、計り知れない犠牲の上で成り立っていたことが分かる。

自然再生の祭典
1793年8月10日開催

1793年8月、フランスではアンシャン=レジームの終焉を祝し、自然再生の祭典が行われた。本貨はその祭典を記念した5デシームである。この祭典では古代エジプトの女神イシスの噴水が捧げられた。イシスの胸から水が噴き出すこの噴水は再生の泉と呼ばれ、革命の始まりの地バスティーユの跡地に設置された。

共和歴(革命歴)2年目の刻印
パリ造幣局製を示すAの刻印

裏側に刻印された「L'AN2」という刻印は、共和暦(革命暦)2年目を意味している。1792年を元年とし、2年目は1793年にあたる。1793年は山岳派のロベスピエールが権力を掌握し、恐怖政治を行っていた時期である。1793年1月にルイ16世、続いて同年10月に王妃マリー=アントワネットが処刑された。マリー=アントワネットは裁判に出頭したが、ロベスピエールの処刑リストには裁判の前から既に王妃の名が書かれており、形だけの裁判だった。

ルイ16世とマリー=アントワネット
ルイ=ジョゼフ生誕記念青銅メダル

マリー=アントワネットの処刑日には、約3万人の警備兵が動員された。王党派を始めとする勢力に王妃の処刑が阻止されることを防ぐためである。処刑はルイ15世広場、すなわち現コンコルド広場で行われ、マリー=アントワネットは「共和国万歳!」と叫ぶ民衆の罵詈雑言を浴びながら、断頭台の露と消えた。

今回紹介するロベスピエールは、フランス革命時代に一時は頂点に上り詰めた人物である。アラス出身の弁護士で、貧しい者に無償で弁護を行う心優しい青年だった。政界に入った後も賄賂に惑わされない強靭な精神を持つ清廉潔白な人物だったが、その純真さと正義の心が裏目に出て、敵視した人物は全て処刑する怪物へと変貌した。晩年は、かつての同志にまで手をかける狂人ぶりだった。

若き日のロベスピエールは裁判官も務め、罪人に死刑判決を下さなければならないことがあった。その晩、ロベスピエールは妹に「彼が有罪で悪人なのは分かるが、死の宣告しなければならないのは......」と繰り返し嘆き、絶望していたという。怪物と呼ばれた男も、当初は処刑命令にひどく心を痛めていたようである。

ルイ16世とマリー=アントワネットの結婚
仏澳政略婚記念銀メダル

ルイ15世が天然痘でこの世を去り、ルイ16世が1774年に王位についた。翌年にルイ16世は王妃マリー=アントワネットを伴いパリを行幸し、ノートルダム大聖堂を参詣した。この日は雨が激しく、ルイ16世一行はルイ=ル=グラン学院で雨宿りすることになった。その際、一人の学生が国王賛美の詩を代表して朗読した。この17歳の少年がロベスピエールだった。これもまた運命、それとも因縁か。ルイ16世とロベスピエールは、この時に既に出会っていたのである。ルイ16世とマリー=アントワネットは、まさかこの少年に将来首を落とされるとは露ほどにも思わなかったことだろう。学院から国王の代表挨拶に選ばれるほどの秀才ロベスピエールは、この時から頭角を現していた。

ロベスピエールが弁護士として法律の世界を志したのは、社会的弱者を救済するためだった。それは、1783年のドトフ事件に遡る。アンシャン修道院の会計係の修道士が修道院で働く若い女性クレマンティーヌ・ドトフを口説いたが相手にされず、その腹いせで彼女の兄フランソワ・ドトフを窃盗罪で訴えたというものだった。有力なアンシャン修道院から訴えられれば、貧しい庶民であるフランソワ・ドトフの発言が信じられずはずもなく、彼は悲嘆に暮れていた。だが、ロベスピエールは3年という月日をかけて勇敢にもフランソワを弁護し、裁判で見事に勝利した。権力者から庶民を救うことをロベスピエールは自身の目標として課していた。権力者が弱者を抑圧し、不幸に至らしめる現状がロベスピエールには許せなかった。

人はなぜ悪に陥るのか?ロベスピエールの心の師ルソーは、人は善として生まれるが、社会がそれを悪に至らしめると述べた。ルソーの思想に感銘したロベスピエールは、社会の根本を変えるため、政界へと足を踏み入れたのだった。ロベスピエールはジャコバン=クラブ(山岳派)に出入りするようになり、1790年3月には周囲の支持を得て会長に就任した。ジャコバン=クラブは、ジャコバン修道院の食堂を拠点とした政治組織である。1790年時点で152の支部を持ち、会員数は1,000名を超えていた。彼は定期的に各地の会員に書簡を送り、自身の演説原稿も同封した。特に女性支持者が多く、熱いファンレターが彼のもとに頻繁に届いていた。

シャルロット・ロベスピエールの回想録
ロベスピエールは、家具職人デュプレの家に下宿していた。パリのサン=トノレ街に存在し、ジャコバン=クラブから近い場所だった。デュプレ家にはエレオノールという名の娘がおり、ロベスピエールと特別な関係にあったという。それは、ロベスピエールの妹シャルロットの回想録『メモワール』から窺える。革命家のプライベートを知る貴重な証言である。

エレオノール・デュプレは兄の情婦だったという説と婚だったという説があるが、私はどちらも正しくないと思っている。ただ、確実に言えることは、デュプレ夫人が兄を婿に迎えたいと熱望しており、エレオノールと結婚させるために兄の機嫌を取ったり、気を引いていたことである。エレオノール自身、「女市民ロベスピエール」と呼ばれることを強く望んでいて、兄の心を癒すためなら何でもした。

また、シャルロットの回想録によれば、アラスでロベスピエールに好意を抱く女性は数多くいたが、兄が結婚を考えたのは叔母の継娘アイナス・デゾルティだけだったという。また、ロラン夫人もロベスピエールに近づこうとした女性だった。彫金師の娘として生まれたロラン夫人は、才色兼備で引く手あまた、求婚者が殺到した。哲学者ロランと結婚した後も、彼女には多くの男友達がいた。彼女は男を味方につけて利用する才能に長けた。そんな彼女はロベスピエールに近づき、サロンに招待した。ロベスピエールの資質を見抜いていたのである。だが、ロベスピエールはロラン夫人が唯一利用することができなかった男だった。この男には、あらゆる誘惑も通用しない。汚職を嫌い、清廉潔白という言葉がふさわしく、自分の信念をひたすら貫く男だった。

セレスタン・ギタールの日記
フランスのパリに在住する平民の老人が書いた日記である。フランス革命を現在に伝える一級品の資料のひとつ。

1794年7月27日日曜日、気温23℃、南西の風が吹く。朝の間少し雨が降っていた。国民公会はロベスピエールを極悪人として告発、逮捕状を出した。ロベスピエールは命運尽きたと悟り、拳銃自殺を図って頭部に弾丸を一発撃ち込んだが死ねず。彼の弟も窓から飛び降り自殺を図り、真っ逆さまに落ちたが死ねず。

ギタールによればロベスピエールは拳銃自殺を図ったことになっているが、メダという青年憲兵が顎を撃ち抜いたという別の記録もある。ロベスピエールの銃創の真相は現在でも判然としないが、重傷を負った状態で連行されたことは確かである。また、傷の治療にあたった医師が顎の銃創について記録しているので、これも確かである。

1794年7月28日月曜日、気温23℃、午後に小雨が降る。ロベスピエールと共謀者21名は、革命裁判所に連行され、死刑宣告を受けた。彼らは、サン=トノレ通りを通って革命広場に連れていかれた。道中、民衆の罵声を浴びた。民衆は欺かれたことに激昂していた。処刑は夜7時に実行。クーデタ勃発後、24時間で決着が着いた。6万人のパリ市民虐殺を図った彼らは、自分の死がこうも早く訪れようとは思わなかっただろう。これが極悪人の運命。謀反を起こす者は、陰謀の実行直前で身を滅ぼすのが神の思し召しというのもの。野望に取り憑かれた極悪人、これがお前の傲慢さの行き着くところだ。陰謀の主犯は死に、全てが終わった。

ロベスピエールに対する深い憎しみが感じられる内容で、かなり感情的になって書かれている。ここから、ギタールがロベスピエール政権のアンチだったことが窺える。

1794年12月23日火曜日、気温0℃、日中は4℃に上がる。テュイルリー宮殿の中門と背中合わせで建っていた革命裁判所が解体されている。ロベスピエールはここで民衆に演説をした。両手を天に差し伸べる彼の姿はモーセさながらだった。だが、この男は人の首を切り、虐殺し、溺水させた。なんという極悪人。

ロベスピエールは処刑される前、顎に銃創がある状態で発見された。この傷の原因は今も謎に包まれている。自害の失敗、憲兵メダによる狙撃、または別の者からの襲撃の3つの支持者に分かれている。セレスタン・ギタールの日記には自害の失敗と記されているが、負傷箇所が不自然であることから襲撃された可能性が高い。治療の担当医が傷の状態を記録しているものの、彼を極悪人や怪物と記しており、客観的な記録とは言い難い。治療にあたった医師によれば、ロベスピエールは治療中に意識があり、黙ってずっとこちらを見ていたという。黙っていたのは顎が砕けて話せない状態ないし治療のため顎にタオルが入れられていたのだろう。記録では黙って見ていたとだけあって状況説明はされていないが、医師が彼の顎に指を入れると砕けた骨の破片が確認できたという。

ロベスピエールは顎の傷で既に致命傷を負っていたが断頭台に送られた。彼はその日に処刑される逮捕者の最後に回された。ロベスピエールを公開処刑のクライマックスとしたのである。彼に憎悪を抱く人々は残酷にもロベスピエールの最愛の弟で同志でもあるオーギュスタンを彼の前に処刑して絶望を味合わせた後に刑に至った。

ルイ18世(プロヴァンス伯)
一般流通用5フラン銀貨

ロベスピエールの死後、彼の部屋のベッドの下からマリー=アントワネット王妃の遺書が見つかった。彼は王妃の遺書を親族に届けず、自分のところで留めていた。革命が落ち着きを見せると、遺書はようやくプロヴァンス伯(後のルイ18世)のもとに届けられ、その後、フランス国立古文書館に収蔵された。また、下宿先のデュプレ家にロベスピエールが借金をしていたことも後に判明した。フランス革命の指導者として一躍名を馳せたロベスピエールだが、汚職を嫌い、その立場を利用して私腹を肥やすことは決してなかった。その生活は質素そのもので、当時の貴族たちが享受した贅沢とは遠くかけ離れていたものだった。その結果が下宿先のデュプレ家に残された借金だったのだろう。

社会的弱者に寄り添い、彼らを権力者から守るために政界に足を踏みれた青年弁護士ロベスピエール。心優しく、清廉潔白、真な誘惑も薙ぎ払う人格者だった。志高きフランスのスーパーヒーローが、いつしか闇に堕ち、誰彼構わず処刑する怪物に変貌していった。権力が彼をそうさせたのか。猜疑心が彼をそうさせたのか。強すぎる正義感が彼をそうさせたのか。だが、本当はロベスピエール自身もフランス革命の被害者の一人だったのかもしれない。



Shelk 🦋

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