マークの大冒険| ザ・ビフォア・アドベンチャー 『キミがいた季節』
「名前?名前は風秋(ふうき)だよ。秋の風が吹き始める季節に生まれたから風秋。私、自分の名前が好きなんだよね。でも、それって大事なことだと思わない?」
出会って間もない頃に彼女がそう言ったことをよく覚えている。珍しい名前だから印象的だというのもあるけれど、何より自分の名前が好きだと胸を張って言える彼女の姿は輝いていた。そして、時折見せる彼女の笑顔は世界の全てを救えてしまえるような気がするほど綺麗だった。
毎日、何をすればいいのか分からない手探りの日々。そんな中で、彼女の来訪はボクの楽しみのひとつだった。何を話すわけでもない。でも、くだらない話やボクの好きな古代文明の話を彼女は目を輝かせて聞いてくれた。それが何だかとても心地好かったし、いつからか当たり前のことのようになっていた。でも、それが当たり前のことではなく、本当は奇跡みたいに大切な時間だったと気づくまでに、ボクはいろいろと遅過ぎたのかもしれない。
🦋🦋🦋
「すごい。マークは本当にすごいよ。古代エジプト語もギリシア語もラテン語も読める。そんな人、初めて会ったよ。本当にすごいよ」
「ちなみにフェニキア語とヘブライ語、アラム語もいけるで。古代地中海世界の大抵の言語なら読めるよ」
ボクは得意げに言った。普段、人にそんなことを言えないこともあって、この日のボクは特に饒舌だった。
「それだけいろいろ知ってても、難しいものなんだね。私からすれば、何でも上手くいくような気もするんだけどな」
「だといいんだけどね。でも、現実はエジプト語やギリシア語、ラテン語がいくらできても、正直、食べてけない。そんなことできたって誰からも認められないし、興味も持たれないしね。でもね、それでもいいんだ。ボクはそれでも、この道を突き詰めたい。生活は厳しいし、この先どうなるかも分からない。いつまでも今のようなその日暮らしで、このままいつかのたれ死んでしまうのかもしれない。けれど、たとえそうなったとしても後悔はないよ。夢や、やりたいことと引き換えに手に入れた安定は、ボクにとっての本当の幸せではないと思うんだ。安定した生活の中で、自分が本当にやりたかったことを押し殺し、かつての自分を後悔するくらいの人生なら、思いのままに突き進んで果てたい。それがボクだし、ボクがボクである理由なんだ」
「マークはそれでいいの?せっかくなら、有名になりたいとは思わないの?」
「もちろん、有名にはなりたいけど……」
「……あのね、ずっと言おうと迷ってたことがあるんだけど、私、実家に帰ろうと思うんだ」
しばらくの沈黙の後に、彼女は弓矢のような鋭い言葉を放った。
「え?……そうなんだ……」
突然の彼女の報告にボクは驚きを隠せず、何も言い返すことができなかった。
「最近、体調悪くってさ。東京での暮らしは、やっぱり私には合ってないのかも。夢見て地元からこうして出てきたけど、何だかもう疲れちゃった。でも、マークには絶対に夢を諦めてほしくないな」
「……うん」
「私はマークの才能を誰よりも知ってるからさ。どうしてそんなふうに燻ってるのかが不思議なくらい。この才能に気づかない人間たちが本当に憎たらしいよ」
「ありがとう……。ボクに才能さえあれば」
「言ったじゃん、才能はある。タイミングのようなものに恵まれてないだけだよ。きっと将来、偉大な人になる」
「なれるかな?」
「なれるよ。というか、なるんだよ」
「分かった、偉大になるよ」
「どんな偉大な人になってくれるの?偉大な写真家?この写真店を高層にビルにするとか?」
「いや、やっぱり偉大な考古学者がいいな。カーターやガーディナーのようになりたい」
「どっちでもいいけど、早く有名になってよね!」
「みんなに認められて、有名になったら、きっとお金もたくさん入る。こんなボロい写真店ともおさらばだ。そしたら、キミが欲しいものを何でも買ってあげるよ。美味しいものもたくさん食べて、そして、地中海世界を旅しよう」
「いいね。でも、地中海って自分の好きな場所を選ぶところがマークらしいよね。私がアメリカに行きたいって言ったら?」
「アメリカにも行くけど、まずは地中海世界でしょ」
「そっか、でもマークが勧めるなら、きっといい場所なのかもね」
「エジプト、ギリシア、イタリア、イスラエル、チュニジア、スペイン、ドイツ、フランス。イギリスやアフガニスタンにも行こう。ギザのピラミッド、アブ・シンベル神殿、古都アレクサドリア、パルテノン神殿。そうだ、ギリシア神話『イリアス』の舞台も巡ろう。アイネイアスのようにトロイアからトラキアに渡り、タソス島に上陸してエーゲ海の小さな島々にも足を運ぶんだ。クレタ島からペロポネソス半島に渡り、ギリシア本土を北上して、シチリア島へ渡る。その後、再度北上して南部イタリアからポンペイを通過して、帝都ローマを目指す。ローマは偉大だ。コロッセウム、七つの丘と数え切れないほどの神殿。エルサレムにも行きたいね。あそこはとても神聖な場所なんだ。カルタゴがあったチュニジアにも、ガリア、ゲルマニア地方だったフランスとドイツにも。ブリタニア地方だったイギリスに渡ったら、ロンドンの大英博物館を案内する。ロゼッタ・ストーンのエジプト・ヒエログリフを読んであげるよ。アフガニスタンでは美しいモスクを観よう。きっと佇んでしまうほど綺麗だよ。そして……」
「そして?」
「そして、ボクはいつか必ず本を出す」
「へえ、いいね。カッコいい。何の本?」
「古代コインの本だよ。ボクの研究の集大成。タイトルはもう決まっているんだ。『アンティークコインマニアックス』。未だ誰も出版したことがない、世界で唯一の古代コインの歴史や神話背景に言及した一冊。コインの基礎情報を記載して写真を並べただけのカタログではなく、一枚一枚のコインの図柄や銘文に追求した、世界で初めてにして唯一の古代コインの解説書なんだ」
「何だかすごそうだね!完成したら、絶対読ませてよ」
「もちろん。一番最初にキミに贈る」
「じゃあ、やることは決まったね!あとはマークが有名人になるのを待つだけだ」
「簡単に言うけど、やる方は結構大変なんだぜ」
「でも、偉大な考古学者になるんでしょ」
「世界中の人が驚くような大発見がしたい」
「夢を追い続けてるからこそ、マークは輝いていると思う。ねえ、前にイングランドでは東の風が吹くと嵐が来て、何もかも吹き飛ばしてしまうって言ったよね」
「そうだね、イングランド独特の言い回しだけど」
「たとえ東の風が吹こうとも、あなたの冒険は終わらない。どんな苦難があっても、マークは吹き飛ばされたりはしない」
「いや、たとえ東の風が吹こうとも、ボクらの冒険は終わらない。ボクら、だよ。『ら』ってところが重要だよ」
🦋🦋🦋
キミが実家に帰ったところで、ボク"ら"の冒険は終わらない。ボクらの冒険は始まったばかりなんだ。まだまだオープニングに過ぎない。これから極上のワクワクとドキドキを秘めた冒険をキミに届けよう。世界は未知との出会いで溢れている。
あの日のボクは何の悪気もなく、無邪気にそんなふうに思っていた。夢を語ることがまだまだ許される。そう、信じていた。
彼女が実家に帰ってからも、ボクらは連絡を取り合っていた。だが、会う回数が減ると、やはり連絡のやり取りも次第に疎遠になっていく。それからしばらくして、彼女から結婚したとの報告があった。最初は、現実味のない不思議な心地がした。そして、徐々に何とも言えない心境がボクを襲った。だが、メールに送られてきた結婚写真に映る彼女は、とても幸せそうな笑みを浮かべていた。これで良かったのだ。元気で幸せなことに勝ることはない。前にお嫁さんになるのが夢だと彼女は言っていた。それが冗談なのか本心なのかは分からないが、もしかしたら彼女の夢はもう叶ったのかもしれない。
「おめでとう」という内容のステレオタイプなメッセージと結婚写真が素敵だと返信した後に、彼女から返事が返ってきた。
「あなたの欲しかったものは、もう手に入った?」
そのメールにボクは返事を返さなかった。
ボクはいつまで、
夢見ることを許されるのか____。
そこにはただ、焦りしかなかった。
End.
Shelk 詩瑠久🦋
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