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英仏百年戦争下のアニエルドール金貨
今回は表題の通り、英仏百年戦争下に発行されたフランスのアニエルドール金貨を紹介する。子羊を描いた中世フランスの金貨といえば、ジャン2世のムートンドールが著名だが、アニエルドールの方が稀少でオークションでもほとんど顔を出さない。現存数が少なく市場に姿を見せないこともあってか、アエルドールの知名度はムートンドールに遥かに劣るが、稀少性はそれを上回る熱心なコレクター好みの金貨である。
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Charles VI(1380~1422) Fr-290
中世フランス、ヴァロワ朝シャルル6世治世下の1417年に発行されたアニエルドール金貨。アニエルドール金貨は、1226年11月24日、ルイ8世治世下に発行が開始された。過越祭の子羊を描いたアニエルドール金貨(アニエルとはフランス語で子羊の意)は、14世紀初頭のフィリップ4世治世下にヨーロッパの広範に流通し、公国や領主国が模倣貨も造ったほどだった。
その後、フランスが百年戦争で疲弊すると、シャルル6世の時代には直径は同程度でも重量は従来の4.196gから2.549gに落とされた。百年戦争により壊滅寸前に陥ったフランスの情勢を本貨は如実に表している。
シャルル6世治世下のアニエルドール金貨は、1417年5月10日と10月21日の二度にわたって発行された。5月10日発行のタイプを1st emission、10月21日発行タイプを2nd emissionと呼ぶ。今回紹介する本貨は、2nd emissionにあたる。
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+AGn:DEI:QVITOLL':PECAT:mVDI:mlS:nOBIS K F RX
世の罪を取り除く神の子羊、我らを憐れみたまえ。フランス王シャルル。
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+XPC*VINCIT*XPC*REGNAT*XPC*INPERAT
キリストが征服し、統治し、命ずる。
ラテン語による銘文は、上記のようになっている。
さて、当時のフランスの時代背景を少しみていこう。時はシャルル6世治世下、百年戦争の真っ只中である。百年戦争は1337~1453年に勃発した英仏間の戦争である。正確には116年間続いた戦争だが、切りよく百年戦争と歴史家たちは呼んでいる。また、実際は終始100年近く戦争が行われていたわけではなく、幾度かの休戦もあって断続的に行われていたものだった。
百年戦争は、フランスの王位継承権をイングランド王室プランタジネット家及びランカスター家が主張したことを発端とする。イングランド王がフランス王も兼任できるというのがイングランド側の主張で、これを認めないフランスのヴァロワ家と約100年間に及ぶ激しい抗争が起こった。
シャルル6世が属するヴァロワ家は、先代の王家カペー家の分家であり、フィリップ6世がヴァロワ朝の初代として君臨した。フィリップ6世は争いなく王位継承権が回ってきたため、幸運王とも呼ばれている。続くフィリップ6世の息子ジャン2世は善良王と呼ばれ、戦場で勇敢に活躍した。ジャン2世が捕虜となった際、イングランドは法外な身代金を要求した。この負債は息子シャルル5世の時代にまで影響した。幸か不幸か、ジャン2世が囚われの身のまま敵地ロンドンで病没したため、フランスは身代金を全額払わずには済んだ。それでも、フランスへの経済打撃は大きかった。というのも、それまでのフランス王は直轄領からの税金が収入源だった。そのため、王家と言えども常備軍を持てるほどの財力はなかった。有事の際に傭兵を徴収する形が採られていたため、これがフランス軍が貧弱だった原因のひとつだった。
当時のフランス王は絶対王政で知られるルイ14世ほどの力はなく、税金を取るには三部会を開いて国民の許可を得る必要があった。唯一例外があり、国王の身代金については議決を通さなくても良いという決まりがあった。ジャン2世存命中は彼の身代金という体裁で、シャルル5世はそこから軍費用の財源を密かに抜いていた。だが、ジャン2世が敵陣で没した後は、財源が減少した。そこでシャルル5世は、フランスの各地方の防衛を理由に徴税を始めた。当時のフランスの人々には、自分がフランス人という自覚はまだなく、国家のための徴税と言われても、自分には関係ない税という感覚で反発がの念が大きかった。だが、職にありつけず盗賊化した傭兵が各地に大勢おり、彼らが治安を悪くしていた。そうした盗賊を取り締まる名目で、シャルル5世は税の徴収を開始した。実際、盗賊が蔓延り、各地域の人々は困っているのが事実だった。こうしてフランス軍は常備軍の獲得に成功したが、シャルル5世亡き後、彼が築いた体制は全て崩れ去った。次王シャルル6世は最初こそ有能だったものの、ある日突然発狂し、国政を担える状態ではなくなった。統制が取れなくなったフランスは、再びイングランドの侵入を許してしまい、北部のほとんどが占領される状態に至った。
シャルル6世の生い立ちについて少しみていこう。シャルル6世はシャルル5世の崩御により、11歳で即位した少年王だった。戴冠式はランスにあるランス大聖堂で伝統的に行われた。まだ少年ということもあって政治能力を持たないことから、父シャルル5世の弟ブルゴーニュ公フィリップ、アンジュー公ルイ、ベリー公ジャン、そして、母ジャンヌ・ド・ブルボンの兄ブルボン公ルイが実質的な支配権を有していた。その後、シャルル6世はバイエルンから迎えられた美女イザボーと結婚する。野心家のイザボーの勧めで、シャルル6世は1388年に親政を開始した。
シャルル6世は当初、親愛王と呼ばれ、国民の支持を得ていたが、ある日突然発狂し、政治能力を失ったことから狂気王の渾名で呼ばれている。これは、現在でいうところの統合失調症を患っていたものと思われる。また、彼は「ガラス妄想」という精神病も患っており、他人に触れられることをひどく恐れた。自分の身体がガラスのように脆く、粉々に砕け散ってしまうのではないかという恐怖心に常にかられており、奇行を繰り返した。衣服に鉄の棒を縫いつけていたこともあったと伝えられている。そうしたある日、彼は行軍中に発狂し、味方の兵士を突如切りつける大事件を起こした。周りにいた兵士で何とか彼を押さえ込み、事態は収束したものの、4人の死者が出る大惨事となった。
シャルル6世は発狂後、身近な人間の顔や名前も分からなくなった。稀に正気に戻ることもあったようが、あまりにも不安定で国政を任せられる状態ではなかった。こうした背景を機にシャルル6世の王妃イザボーが実質的な権力を握るようになった。百年戦争が起きていた当時、フランス内では政治的な派閥が形成されていた。対立していたイングランド側を支持する者たちもおり、イザボーはブルゴーニュ派(親英派)だった。この派閥名は支配地域に基づくもので、反イングランド勢力をアルマニャック派(反英派)と呼ぶ。
1422年にシャルル6世が病没した。シャルル6世には後のシャルル7世となる王太子がいたが、イザボーはシャルル王太子は不義の子で、シャルル6世と自分との間にできた子ではないと主張した。ブルゴーニュ派のイザボーはシャルル7世の妹カトリーヌとイングランド王ヘンリー5世を政略婚させる狙いだった。また、トロワ条約というシャルル6世が崩御した際は、イングランド王のヘンリー5世がフランス王に即位するという条約まで取りつけた。これは事実上のイングランドによるフランスの乗っ取りだった。フランスは、消滅の寸前まで来ていた。
だが、フランスにとって絶体絶命とも言える条約が結ばれる中、ある出来事が起こった。それはトロワ条約の穴をつく形となった事件だった。なんとヘンリー5世が若くして病死したのである。ヘンリー5世は、シャルル6世より2ヶ月ほど早くこの世を去った。これにより、ヘンリー5世がシャルル6世の後見人になることを大前提としたトロワ条約が崩れ去った。イングランド側にとっても、フランスのブルゴーニュ派の人間たちにとっても想定外の出来事だった。シャルル6世は精神疾患に苦しみながらも長生きするという生命力で、意図せずとも抵抗しフランスを守る形となった。とはいえ、シャルル6世の妻イザボーを筆頭とするブルゴーニュ派の勢力は、いまだ強大なものだった。
本来、フランス王位を継承するはずだったシャルル7世は母イザボーの力に屈し、フランス南部のシノンに逃れ、隠れるようにひっそりと暮らしていた。そうした中で突如現れたのが、救世主ジャンヌ・ダルクだった。農夫の娘だったジャンヌはある日、シャルル7世をランスで戴冠させよ、というお告げを神から授かったという。彼女は幾度も語りかけてくる声を信じ、故郷ドンレミ村を出て、シャルル7世を戴冠させる使命に挑んでいく。数々の激戦を経て、幸運にもジャンヌはシャルル7世をランスで戴冠させることに成功した。
その後、彼女はイングランド軍に占拠されていたパリの奪還も目指したが、これには失敗する。撤退後、他地域で連戦する中、敵軍に捕えられ、捕虜となった。法外な身代金と引き換えにジャンヌの身柄を引き渡す条件が出されたが、シャルル7世は身代金の要求には応じず、彼女は見捨てられる形になった。その後、ジャンヌはブルゴーニュ派のフランス司教ピエール・コーションによって異端裁判にかけられ、火刑となる悲劇的な最期を迎えた。ジャンヌの死から時が経ち、シャルル7世は彼女の異端裁判の結果を無効とした。ジャンヌのおかげで王になれたにもかかわらず、最後は見捨てる形となったことを後悔していたのだろう。その後、さらに時が経ち、ジャンヌは公式に聖人として叙せられ、フランスを救った偉大な英雄として現在でも語り継がれている。
【主要参考文献】
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レジーヌ・ペルヌー、塚本哲也(監)、遠藤ゆかり(訳)『奇跡の少女ジャンヌ・ダルク』2002
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城戸毅『百年戦争 中世末期の英仏関係』刀水書房、2010
エーリック・アールツ、藤井美男(監訳)『中世ヨーロッパの医療と貨幣危機』九州大学出版会、2010
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朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄『中世英仏関係史』創元社、2012
竹下節子『戦士ジャンヌ・ダルクの炎上と復活』白水社、2013
堀越孝一『パリ住人の日記 I』八坂書房、2013
コレット・ボーヌ、阿河雄二郎・北原ルミ・嶋中博章・滝澤聡子・頼順子(訳)『幻想のジャンヌ・ダルク 中世の想像力と社会』昭和堂、2014
ジャック・ル=ゴフ、井上櫻子『中世と貨幣』藤原書店、2015
堀越孝一『パリ住人の日記 II』八坂書房、2016
佐々木真『図説 フランスの歴史』河出書房新社、2016
堀越孝一『ジャンヌ=ダルクの百年戦争』清水書院、2017
Guinea, Sovereign, Shillings『ヴァロワ朝百年戦争期における中世フランスおよび諸侯の貨幣収集』2017
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福井憲彦『教養としてのフランス史』PHP、2019
堀越孝一『パリ住人の日記 III』八坂書房、2019
竹下節子『超異端の聖女 ジャンヌ・ダルク』講談社学術文庫、2019
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浜本隆志『図説ヨーロッパの紋章』河出書房新社、2019
ゲオルク・シャイベルライター、津山拓也『中世紋章史』八坂書房、2019
スティーヴン・スレイター、朝治啓三『紋章学事典』創元社、2019
福井憲彦『一冊でわかるフランス史』河出書房新社、2020
菊池雄太『中世ヨーロッパの商人』河出書房新社、2022
加藤玄『ジャンヌ・ダルクと百年戦争』山川出版、2022
池上俊一『少女は、なぜフランスを救えたのか』NHK出版、2023
André Delmonte, “Le Benelux d'or” Jacques Schulman BV, 1978
Jean Duplessy “Les monnaies françaises royales” Maison Platt, 1999
Arthur L. Friedberg, Ira S. Friedberg, Robert Friedberg, Gold Coins of the World, Coin & Currency Institute, 2017
Shelk 🦋