『傲慢と善良』を読んで
『傲慢と善良』を読了した。
「人生で一番刺さった小説」というコピーが書かれた帯がつけられている。
確かに私がこれまで読んできた本の中で1番刺さったような気がする。
でもこの物語を読む前と後とでは「人生で一番刺さった本」という一文が違う意味を持つように思える。
「刺さる」ってもっとライトなものだと思っていたよ。
蘇生不能なまでに自分自身の至るところをナイフでぐちゃぐちゃに切り刻まれたイメージ。
確かに文字通り刺されてはいる。
婚活で出会ったとある男女。
架:都内で育ち恋愛経験も豊富でサラリーマン経験後に家業を継いだ社長。
真実:群馬県から上京してきた派遣社員。
付き合って2年で婚約。真実は架の会社を手伝うために仕事を辞めたもののその翌日に失踪。
真実は群馬時代に婚活で知り合った相手にストーカーをされていた。真実の不在時に家に上がるなど過激だったため、ストーカーに連れ去られたのではないかと考え、真実の居場所を探すと同時にストーカーの犯人捜しを始めた架。
真実が30年余りの長い期間を過ごした群馬県に通う中で架の知らない新たな一面を垣間見る。
というようなあらすじ。
婚活、全然遠くない話。
お見合いや婚活パーティーと言われるとまだまだ遠いもののように感じてしまうけど、マッチングアプリや合コンなどと言い換えると自分だってやっている、もしくは近いうちに始めようと考えているくらいには近すぎる話である。
同級生は同棲し結婚し子供を産んでいる。そのくらいの年齢にはなってしまった今、婚活を遠いものにできる立場ではない。
(以下、多少のネタバレを含みます。)
私は自分の生まれたまちにずっと住んでいる。このまちのことは好きでも嫌いでもない。
住みやすいなとは思うけど、物心ついたときからずっと同じ場所に住んでいて他を知らないからこそ感じることなのかなとも思う。
私は自分のことを田舎者だと思っている。
一般的に都会といわれる場所よりも田舎といわれる場所の方が何から何まで親しみがなく、カルチャーショックを受けることが多い。
実際以前のnoteでも書いた通り、真実の生まれ故郷である群馬県前橋市を訪れた際はその田舎さに驚いた経験がある。
そもそもこのまちは都会の方ではある。というか社会の教科書には都市として掲載されている程度には都会である。
それでも私は謙遜でも嫌味でもなく、感覚的に自分のことは田舎者だと思っている。
それは何故かと考えてもちゃんとした答えは分からないのだけど、都会への憧れが人一倍強いからなのではないかと思う。
大学受験でも就活でも、地元を出ようとしていた。ただ地元を出られたらそれでいいのではなく、どちらも自分の住んでいる土地よりも確実に都会の方へ出ようとしていた。
でも出られなかった。全て失敗に終わった。
群馬県に通ううちに架は地元の人たちの中で「このまちを出たことがある人」と「このまちを出たことがない人」に違いがあることに気が付いた。この違いというのは性格の違いだとか上下関係とか、そういったところではない。感覚的なもので言語化するのは難しいのだが、自分の範囲の中にいるのか、自分と同じなのかといったようなものである。
芸能人に対して「住む世界が違う」「違う世界の住人」と言うことがある。一度でも県外に生活拠点を移すと幼い頃から一緒に過ごしてきた幼馴染に対してもそんな感覚になるらしい。
このあたりの感覚については少し恐ろしさを感じながらも分かってしまう自分もいた。
この"怖さを感じながらも共感する部分もある"というのが田舎でも都会でもない場所で育ったということなのではないか。
群馬県には一度しか行ったことがない。以前記事に書いた通り一番の都会でも田舎に感じた。
それでも都内へのアクセスはかなり良くて、時間はかかるものの新幹線や特急に乗らずとも気軽に日帰りすることが出来る。
"東京"という大都市が身近に存在する。
私はどうだ。
以前から自分自身の都会への憧れの強さはどこから来るのかと考えていた。
エンタメが好きで、そういった文化的資本が充実していたり、それ以前に好きなアーティストのライブが都内で行われることが多いから近くに住んでいつでも行けるようにしたいだとか、色々浮かんだ。
その中で至った結論がひとつある。
私は全国的に見たら都会と呼ばれるような場所で生まれ育った。
東京や大阪(神戸京都)に比べたら見劣りするが、一応都会と呼ばれる場所に生まれた。
このまちには何でもある。大学だって就職先だって選び放題で、このまちを選んで遠いところからやってくる人も多くいる。まちを歩いていると観光客らしき外国人にだって出会う。
それでもこのまちを出る人は多い。
人それぞれ様々な理由があるけど、その大前提には"憧れ"があるのではないかと思う。
入りたい大学(会社)に行くためだとか、就きたい職業に就くためだとかそういった理由が大半を占めるだろうけど、それよりも前に都会への"憧れ"が存在するのではないか。
だって、このまちを出なくたって大半のことは出来るんだもん。
中途半端な都会に生まれ育ったからこそこのまちよりも都会に出ていくという選択肢が生まれ、その選択肢がかなり一般的なものであるからこそ憧れるのではないか。
そしてその選択肢が一般的で、実際にこのまちを出ていく人が多いからこそ、前提に憧れがあるからこそ、このまちを出たことがある人とない人との間になんとなく隔たりを感じるのではないか。
これは身近に東京という大都市が存在する群馬県も私のまちと同じだと思う。(群馬県に住んだことはないので本を読んでの感想と想像でしかないけど)だからこそ、心を鷲掴みされて捩じり潰されたくらいのダメージを負ったのではないか。
と、真実の生い立ちに共感して心ズタズタにされながらも正直なことを言うと私は架と似たような気持ちで読んでいたように思う。
物語は架視点で進められていたから当然のことではあるし、この物語を読んだ人の大半は自分の経験や置かれた状況等に関わらずそうやって読み進めていたと思う。
でもそれだけではない。
先の記事にも書いたように、そしてこの記事でも触れたように、私は群馬県前橋市には訪れたことがある。私が一番好きなバンドの出身地で、そのバンドのツアーで一度だけ。
群馬行きの夜行バスの中で「群馬することないけど夜までどうしようか」と悩む夢を見た。それは正夢になった。
どうしてもすることが無いからと初めて遠征先で映画を見た。その映画館があるショッピングモールは作中で田舎の娯楽の象徴のような扱われ方をしていた。
私が訪れた際に感じたこのショッピングモールの印象は架のそれと似たようなものだった。
作中で描かれた傲慢と善良。善良そうに見える人でも傲慢さを持っているし、逆に傲慢に見える人にも善良な部分はある。
真実の生い立ちを知っていく中で読者に開示される架の感想には傲慢さがうかがえた。ただただカルチャーショックを受けているだけではなく、明らかに見下しているような、馬鹿にしているような描写もあった。
真実の家族のことや学校のことは架を通して知ったことだから架と同じ感想になるのもしょうがない。でも私は偶然にも架と同じ場所に訪れて同じことを感じていた。私も無意識のうちに傲慢にも群馬県という場所のことを見下していた。
都会に憧れる気持ち、田舎を見下す気持ち。自分自身の手で道を切り拓いていく人、与えられた世界の中でしか生きられない自分。羨望と劣等感。
その色々がごちゃごちゃに混ざり合って渦巻いていく。
心の奥の奥にしまい込んで言語化しないことで見えなくなっていた様々な自分がこれまでかってほどに言語化してくる作家さんの手によって表面化してきた。
誰にだって傲慢さはある。冷静にジャッジする、そんな行為だって傲慢さからくるものだと思う。
でもそんなことにも気が付かないようにしていた。気が付かなかった。
群馬に行った時のnote、今見るとあまりの傲慢さに恥ずかしくなる。それでも執筆当時は一切そんなこと考えていなかった。
見下しているようなつもりで書いていたわけではなかった。それが怖い。
言語化しなければ分からない感情がある。
自分の手で言語化出来ればそれが1番スムーズではあるが、他者の視点を挟むことで見えてくるものもある。
見たくなかった、かな?