私の戦場日誌⑥
船出
門司の生活も二週間をもって終わりに近づいたらしい。港の埠頭は続々と終結した兵隊で溢れていた。私達伝騎分隊も馬と共に埠頭に集まる。兵隊達が船腹いっぱいにたらされた縄梯子に何十人もが横一列になって登って行く様は実に壮観であり、軍馬は『もっこ』のような物に乗せられて一頭ずつ吊り上げられる。
乗船直後に下船命令が出されあわてて縄梯子を降りたが何がどうなっているのかわからなかった。後になって空襲警報が発令されたということが分かった。1時間位たった後に再度乗船した。輸送船が岸を離れている時には私もわかり、いよいよ死地に赴くのだなぁと身震いする様な緊張を感じた。
港の入り口一帯に煙幕が張られていたそうだが、私にはわからなかった。甲板の上にプレハブの建物がありその中に入れたが、余りの狭さに咆驚り。おそらく畳み一畳に3人位だったろう。足を伸ばすことも出来ない有り様、救命胴衣を渡されたがこれが何と青竹と桐の木の二種類 どちらも長さ30糎(センチメートル)位にきったものを、縄で編み頭を通して振分に付けて体に固く結び、前後に4本位あったと思うが上陸までは絶対に体から離さない様にとの命令であった。便所といえば甲板より海上に2本の角材を出し、その上から命縄が下がっており船の片側にかなりの数が造られていた。角材をまたいで命縄を持ち用便をするときに下を見たら目が眩む様な高さで 下には大きな鱶列をなして泳いでいる様は異様な光景であった。
この輸送船には田中部隊の全将兵と台湾の高砂族で編成された蘭部隊という将兵が2千人、合わせて5千人位の将兵が乗っていたといわれた。この蘭部隊の任務は敵の飛行場に強行着陸して切り込み、還ることの出来ない部隊であることを聞いたが、船の中では会うことは無かった。この蘭部隊の携行食糧は流石であり歩兵の物とは話しにならない位豪華な物であった。そのことは、後で紹介しよう。
甲板の上の対空火砲は高射砲 聯隊砲 速射砲と全火砲が船の前後左右に配置され、それぞれの
砲に兵が付き決戦の時が近づき一段と緊張が漲っていた。対潜監視兵が前後左右に配置されているが、船がどの方向に向かっているのではないかと推測された。いく日か経って船は濁流の中に入り、朝鮮半島を北進し大連沖を通り、今度は中国の沿岸を南進している事がわかった。何日かしての船内は、だんだんと暑くなってきた。やはり南に向かっている。馬は船内でぐったりとしてきた。そうだろう、ついこの間迄は零下何度という寒い所から今度は一転して摂氏40度近くという暑さなのだから無理もない事だと思う。