三振王の私、4時半起きの母
外角低めに構えたミットに吸い込まれたストレートを見逃す。ドキッとして心臓がキュッと縮む。頼む、ボールと言ってくれ。時の流れがスローモーションに感じる。恐る恐る後ろを振り向くと、審判のおじさんが右手を挙げ、
「ストラッックアウッッ」
そう叫んでいるのを、青白い顔で見つめる。
悔しそうな顔を作って、ベンチへ小走りで帰る。
「振らなきゃ当たらないぞ」
監督にそう言われながら、いかにも気持ちを切り替えていそうな顔をして、守備につく。
大人になった今でも鮮明に憶えているのは、バッターから三振を奪った時でも、気持ちの良いヒットを打った時でも、区内のリーグで優勝を決めた時でもない。
見逃し三振をして、ベンチに帰る時の、あの嫌な時間だ。
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小学3年生の夏、私は友達に誘われて隣の学区の少年野球チームに入った。4年生までの「ジュニアチーム」、5年生・6年生で構成される「1軍」があり、最初は当然ジュニアチームからスタートした。
中休みに欠かさずやっていたドッヂボールのおかげか、5歳からやらされていた水泳のおかげか、はたまた小学生に上がったときから始めたサッカーのおかげか、私はわりかし肩(球を投げる力)が強く、スタミナもある方だった。
当時私の地域には、15チーム程度が属する区内リーグがあり、総当たりで戦ったあとに決勝トーナメントで優勝を決める、というのを年に2回やっていた。たまに、もう少し範囲が大きい市の大会、県の大会にも参加するといった感じだ。
その区内リーグでは、冬になると近くの大きな池がある公園でチーム対抗の駅伝大会を実施していたのだが、私はそれが大好きだった。長距離を走るのがなぜか得意だったし、何より小さい頃から箱根駅伝が好きだったからだ。
少年野球チームでは、肩が強くて走るのが得意だと、ピッチャーになる。ただし、肩が強いと言っても、所詮は井の中のなんとか。他のチームのピッチャーと比べて特別球が速いわけでも、コントロールが抜群に良いわけでもなかった。小学生にはまだ早い、ということで禁止されていて変化球を投げることもできなかった。
無言の特訓
ただ、チームの練習がなかった時は、父が練習に付き合ってくれた。グローブを持ち、無言で玄関に立っていた父親。いつからか、無言のうちに2人で家を出て、特に会話もないまま坂道を登り、下った先にある広めの公園でピッチング練習をするようになった。
高校まで野球をやっていたという話だが、小学生の私から見てもあまり上手い方ではなかったように思う。でもその代わり、教えるのはなぜか上手かった。
そんな父との二人三脚の練習の中で、軸足に体重を溜め込みパワーを開放する妙なピッチングフォームを編み出したり、投げすぎて肩が痛くなった時に発明したスローボールを駆使したりして、小学6年生の時には、背番号1をつけるチームのエースになっていた。そして、父はいつのまにかコーチになり、土日ともに試合や練習に顔を出していた。
そう、私の所属する少年野球チームでは、基本的に土日どちらも練習か試合があった。野球は一応好きだったが不思議なもので、金曜日や土曜日の夜はいつも、明日雨降らないかなぁと思っていた。そんな時は大体、土日どちらもかんかん照りなのだが、楽しみもあった。お弁当である。
お弁当と言っても、基本はおにぎりが2つ。その付け合わせ的なものに何を持ってくるかで、チーム内で流行りのような物があり、長い間定着したのが「にんにく」と「のり」だった。私はもっぱら、味噌かつお風味のにんにくと韓国のりを持ち込んでいた。
当時は今ほど多くはなかったように思うが共働きの家庭もあり、お昼にコンビニのおにぎりを持ってくる人もいた。私はなぜだかコンビニのおにぎりに憧れのようなものがあり、「毎回作るの大変だしコンビニのおにぎりでいいよ」と、良い子を装ってそれとなく所望していたのだが、試合が朝早い日で、集合時間が5時半とか6時の場合でも、母は4時半に起きて、絶対におにぎりを作っていた。にんにくと韓国のりが一緒に入ったお弁当バッグと、粉を溶かすタイプのスポーツドリンクが入った水筒が、必ずテーブルの上に置いてあった。
子供に添加物入りのおにぎりを食べさせたくなかったのか、母の中で決めていたことなのか、理由は分からない。とにかく私は、おじさんみたいなこのお昼の時間を楽しみに、練習や試合を頑張れた。
最新式バッティングセンター
いうまでもないが、野球にはピッチングをはじめとした守備の時間だけではなく、攻撃の時間がある。私は、ピッチングはそれなりに上手くやれていたと思う。一方、バッティングはというと、当たればまぁまぁ飛ぶが、めったに当たらない。
当時野球少年たちの間で流行していた、ラベルに「飛びすぎ注意」と刺激的な謳い文句が書かれたギラギラに輝くバット、通称「飛び注」を使ったり、その後登場した「ビヨンドマックス」と呼ばれる、柔軟で高反発な素材を使用した、当時は革新的だといわれたバットを使ったりしたのだが、当たらなければ意味がない。
「バッティングフォームに問題があるんだ」
まずそう思った私は、住んでいたマンションのエントランス部分の、ガラス張りになっている自動ドアに目をつけた。そのドアの前で、自分のフォームを見ながら素振りを始め、当時ジャイアンツの4番バッターだった「イ・スンヨプ」のバッティングフォームを脳内で再生しながら、所作を真似してみたり、どの辺りが違うのだろうかと研究したりした。
しかし、「イ・スンヨプ」打法では結果が出ない。それならと、当時近鉄バファローズからメジャーリーグのロサンゼルス・ドジャースへ移籍した「中村紀洋」打法はどうかと試したが、事態は悪化した。
チャンスの場面でバットにボールが当たらず、周りから聞こえるため息。その結果スイング自体に億劫になるという悪循環に陥っていた私に、手を差し伸べたのが母だった。
私には2つ下の妹がいる。妹は、車で30分くらいかかる、隣町のかなり大きな、時にはサッカーの試合などを行うようなスタジアムに併設された体操教室に通っていた。平日学校が終わった後、週2回ほど。母が車で送り迎えをしていた。
試合で結果が出ず、相変わらず懲りずに自動ドアのミラーの前で素振りを繰り返していたある日、母が言った。
「一緒にいく?」
平日学校が終わった後は、友達と「ドロケイ」をするか、野球チームの仲間とバドミントンの羽を使ったバッティング練習をするか、自動ドアの前で素振りをしていた私。妹の体操教室の送り迎えに付き合うのは嫌だったし、理由が分からなかった。
半ば強引に車に乗せられ、スタジアムまでの道のりを進む。特に会話はなく、私はその頃発売された「ニンテンドーDS」の「さわるメイドインワリオ」を無言でやっていた。
スタジアムに到着し、妹を体操教室に送り届ける。2時間くらい暇になる。車に戻ってメイドインワリオに勤しもうかと思っていると、
「走ってきな」
と母が言う。体操教室が併設されているスタジアムというのがかなり大きく、外周部分を走ることができるようになっていた。実際、それっぽいウェアを着たランナーや、近所に住んでいるであろうおばちゃん、犬の散歩をしている人もいた。1周が1kmになっていると言う点で、ランニングコースとして選ばれやすかったのだろう。
一応チームではピッチャーもやっていたし、長距離を走るのは嫌いではない。ただ何より、私がワリオではなくランニングを選んだのは、それが終わったら近くのバッティングセンターに連れて行ってくれると言うからだ。
そのバッティングセンターは、当時は中々お目にかかることがなかった「バーチャル映像マシン」を、全打席に備えていた。一般的なアーム式のマシンではなく、松坂大輔、上原浩治、川上憲伸など、バーチャル映像になった当時のプロ野球チームのエースピッチャーたちからボールが放たれる。私はバッティングセンターの存在自体全く知らなかったのだが、母はこの情報をどこで仕入れてきたのだろう。
1ゲーム20球程度、料金は300円。バッティングマシンの球速は、下は80km、上は145km。145kmが出るマシンがあるというのも当時は珍しかったと思う。券売機で10ゲーム3000円のプリペイドカードを買ってもらい、松坂大輔の待つ、120kmの打席へと向かう。
「頑張れ三振王〜」
後ろで見る母に時折煽られながら、一心不乱に松坂と対峙する。前方上部に2箇所、「HOMERUN」と書かれた的があり、当たると好きな駄菓子がもらえるという仕様になっていたので、たまに当たった時には「よっちゃんいか」か「うまい棒」のたこ焼き味をもらって、妹を迎えに行く。
最後の大会
そんな平日がしばらく続いたあるときの、練習試合。バーチャル松坂との特訓の成果がすぐに出るわけではなく、3打席連続で三振した。空振り三振、空振り三振、空振り三振。
打席での不甲斐なさをピッチャーマウンドに持ち込んでいるのが監督に伝わったのか、単に練習試合だから交代だったのかは分からないが、私はピッチャーからレフトに守備位置が代わった。
あんなに練習したのに、あんなにバッティングセンターでは打つことができたのに、あんなに時間とお金をかけてもらったのに。毎週早起きしておにぎりを作ってくれているのに。自分は何で結果を出すことができないんだろう。
レフトの定位置に着いても、頭の中の9割を占めているのは、こんなことばかりだった。
半ば涙目で地面の芝生を蹴る。するとそんな時に限って、打球が飛んでくる。エラー。最悪だ。
試合で三振しては、小学生なりに自責の念に駆られ、体操教室の傍らバッティングセンターでバーチャルピッチャーと対戦し、母に冗談混じりでなじられる。そんな日々をもう少しの間繰り返すと、小学生最後の大会である、区内リーグがやってきた。
私は小学校の友達に誘われて、隣の学区のチームに入ったのだが、住んでいた場所の近くには、もう一つチームがあった。そこには同じ小学校の友達が結構な数所属していて、それはもうライバルとして意識せざるを得ない。
同じ区内で総当たりといっても、プロ野球のセ・リーグとパ・リーグのような感じで最初は2つに分かれていて、リーグ戦の上位チームが決勝トーナメントに進む、みたいな形式だったので、そのチームと対戦する機会はそんなに多くなかった。
しかしながら、小学生最後の思い出にしなさいという神様の思し召しなのか、リーグ戦を勝ち上がった後の決勝トーナメント1回戦で、ライバルチームと当たることになった。負けると、学校でやつらにどんなに顔をされるか分からない。何より、最後の大会で優勝したかったので、勝ちたかった。
当時の小学生の野球の試合は、「ジュニア」の場合は5回まで、「1軍」の場合は7回まで。こちらのピッチャーは私、相手チームは、ピッチャーとキャッチャーのバッテリー以外が同じ小学校の同級生という布陣で始まった試合は、均衡した展開が続いた。父親仕込みの独特なフォームとスローボールを組み込んだ配球で、「同級生マシンガン打線」を何とかかわしていく。一方で、唯一顔見知りではない相手バッテリーに、こちらの攻撃も抑え込まれる。
小学校を卒業したら進学することになる、地元の中学校のグラウンド。照りつける日差し。試合会場がそれとなく緊張感に包まれる中、チャンスは6回にやってきた。
ツーアウトランナー1塁、2塁。バッターは私。ツーストライクと追い込まれた後、サイドスローの相手エースが投げ込んできたのは、内角高め。
「あぁ、見逃そうかな。」
でもこの場面で見逃し三振って本当にやばい。でも振ってもダメそう。どうしよう。そんなことを考えているつもりだったのだが、体は勝手にバットを振っていた。
当たったのは、グリップテープが巻いてある部分のすぐ上、つまり、どん詰まりだった。もしこれがプロ野球で木製のバットを使っていたら、ピッチャーが大谷翔平でなくても、バットは粉々に砕け散っていただろう。しかしながら、こちらは金属バット。しかも私は「飛び注」バットを使っていた。打った瞬間は、あぁショートフライか。そんな風に思いながら全力疾走するふりをしていると、打球はグングンと伸び始め、どちらが捕ろうかとあたふたしているセンターとレフトの動きが見える。
「あれ?」
そう思った時には、ショートフライだったはずの打球は左中間の真ん中に落ち、中学校のグラウンドの奥の方へ抜けて行った。
試合は結局、延長タイブレークの末負けて、小学生最後の大会は終わった。同級生にもちゃんと煽られた。でも、父との無言の特訓がなかったら、母にバッティングセンターに連れて行ってもらっていなかったら、あんなに拮抗した試合にはならなかっただろうし、最後の打席も三振か、良くてショートフライだったはずだ。当時はそんなことを考える脳みそや余裕があるわけもなく、試合が終わった瞬間に号泣したが、大人になった今では、そう思える。
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あの時、自分が親になるなんて、当たり前だが想像できなかった。中学、高校、大学、社会人と、徐々に大人の階段を上がっても、そしてうまい棒が10円から15円に値上がりした今でも、自分が1人の子供の親になる未来を、ちゃんと想像できているわけではない。
そんな私も、結婚することができた。不妊治療を経て、妊娠することができた。まだ安定期にも入っていないので、どうなるかはわからない。
でももし、子供が無事に生まれてきたら、もし、子供が何か打ち込むことを見つけたら、もし、結果が出ずに落ち込んでいたら。無言で玄関に立って練習に付き合ったり、どうやったら上手く行くか一緒に考えたり、時には煽ったり、早起きしておにぎりを作ったりする、そんな親に、私もなりたい。