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【虚構世界】てつがく喫茶・Catharsis
{スタッフ菜奈の独り言 一篇}
椅子は軽い方がいいと思う。
重い椅子を持ち上げたり下ろしたりするのは、かなりの重労働になるからだ
だから椅子は軽い方がいい。
なのに私は今、重い椅子を持ち上げたり下ろしたりしている。
「アンティークの椅子って重すぎます」
一応マスターに放ったつもりだけど独り言になるのは覚悟している。だってマスターは今、絶賛マイギターに夢中だから。
たまに口が動いて、イェス!とか言っている。これは完全に聞いていない。
だったら私も口ずさもう。
まだオープン前だし、お客さんはいないから。
「さっきの質問やけどな」
「聞いてたんですか。だったら返事して下さいよ」
「ちゃうねん、考えてたんや」
「何がちゃうねん」私のツッコミにマスターがフフっと笑った。なんだか嬉しそうだ。
前に友達が、『関西の人はツッコまれると喜ぶ』と言っていたが、マスターを見る度にその言葉を思い出す。
「菜奈ちゃん、さっきの質問、ええとこ突いてるわ。アンティークの椅子はなんで重たいんかって話」
「私、このお店すごく好きなんです。好きなんですけど、この椅子たちだけは嫌いです。朝の掃除が苦痛、地獄っ」
「そんなに!? 」
「そんなに、です。真面目な話、アンティークの椅子は重たい、私の心にも」
「うまいこと言うやん」
ハアッとため息が出る。しまった。幸せが逃げる。
「ため息は幸せが逃げるで」
「誰のせいで出たと思ってるんですか」
まだ掃除は完全に終わっていない。とにかく、終わった場所の椅子を元の位置に戻そうと椅子を持ち上げる。
てくてくと歩いてきたかと思ったら、マスターが私から椅子を、ひょいと取り、全て元の位置に戻していった。
マスターは多少面倒なところがあるけど、何というか、さり気に優しい。だから憎めない。
「それで、どうしてこのアンティークの椅子たちは重たいんですか? 」話を大きく元に戻す。
「そもそもアンティークって呼ばれるものは百年以上前に作られたものってと言われてるんよ。今から100年前にはプラスチックとかアルミニウムとかがもうあったけど、300年以上前になるとそんなん無いもん。だから全部木で作られてる。接合部分になると強化するために余計に木でしっかりさせなあかんねん。それにな、昔は椅子は機能的だけでなくて象徴的なものでもあったんや。だから装飾されたりして余計に重たくなった」
マスターは物知りでもある。
「だとしたら、この店の椅子、相当古いですよね? 全部木で作られているし」
耐久性、やばくないか。
「さすがにここのお店の椅子は百年以上前に作られたものではないよ。確か五十年前くらいとちゃうかな」
「だとして、正直私には、この椅子の価値が分かんないです」
マスターがニヤリと笑って私の方に歩みを進め来た。今日は春らしく少しくすみがかったピンクのシャツに、黒のリラックスパンツとの組み合わせ。ウェイビーな黒髪とマッチしている。ファッションに興味がない私でも、マスターはセンスの良い人だと分かる。
「ここ見てみ」マスターの指が何かを指した。その場所は椅子の裏側だった。
「椅子の裏側に何かあるんですか? 」私は膝をついて、椅子の下を覗き込んだ。
「膝汚れるで」
「マスターが見ろって言ったんでしょ。……あ、何か書いてますね。ってかこれって何語ですか? 」
そこには掘られた文字があった。けれども日本語ではない。それに、英語のようで英語でもない。
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「知らないことを知っている、ソークラテース」
マスターが呟いた。
ソクラテス、ではなくて?と疑問が過ぎる。
「ソークラテース」
「なんで二回言ったんですか」
「だって菜奈ちゃん、『ソクラテスではなくて?』って顔したやん」
「してないですよ、へぇーって思っただけです」
してたけど。
「ソクラテスってな、ソークラテースやねん、発音的には」と
嘘だ、と言えば、なんで嘘つかなあかんねん、とマスターが早口になる。ツッコむ時だけは早口になる。不思議だ、関西弁。
「菜奈ちゃんが知ってるソークラテースってどんな人? 」
いきなり聞かれて答えられるわけがない。「めいっぱい考えましたけど、無知の知くらいしか出ません」
「10秒くらいしか経ってへんやん」
「だって『知らないことを知っている』って無知の知ですよね」
「そう、『無知の知』の人や。ある日な、デルフォイの宮殿で、ソークラテースの弟子がアポロンっていう神に『ソークラテースより知恵のある人っていますか?』って聞いてん」
「神様が答えてくれるんですか? 」
古代はやっぱりファンタジーなのか。
「いや、そうではなくて当時の神殿には神様の言葉を伝える巫女さんがいたんやて。その人がアポロン神からの神託を受けることができたんや」
神託って?みたいに思ってたら「神のお告げのことな」とマスターが言った。
「答えは何と返ってきたんですか? 」
マスターは少し含み笑いをして「ノー」と言った。
「ノーってことは、ソクラテスより賢い人はいないって神が言ったと巫女さんが言ったんですね」ソークラテースとは言わないようにした。
「そう。そうなんやけど、ソークラテースは『いやいやいや、僕はなーんも知りまへんよ、買い被り過ぎでっせ』ってその神託を疑った」
「絶対そんな言い方はしてないですよね」
「ニュアンス的には一緒や。弟子までいて周りから『知恵ある者』と思われていたソークラテースやけども、本人はそうは思ってへんかってん。だからその神託自体に疑問を抱いたんよ」
「すごい、神に挑むなんて」
「いや、正確には、その神託に疑問を抱いた自分が気になった、が正しいんやろなぁ。まぁ、ソークラテースは相手が誰であろうが、知らないこと、疑問に思ったことをただ問いたい人なんよ、僕が思うに」
「熱心な人ですね」
本当にそう思う。私は何かを深く問うことはしなくなったから。
それは、やってみないと分からないから、という前向きな考えというより、深く考えても結局その通りにはならないから、という後ろ向きなもの。
「それでな」マスターが続きを話す。
「神託に疑問をもったソークラテースはな、ほんまに自分が他の者より知恵があるのか、自分より知恵があると言われている人たちを尋ねたんよ」
「行動力すごいですね」
「それで、その知恵があると言われている人たちに何度も問答したんや、それが問答法」
「問答法って禅問答、みたいな? 」
「そうそう、たとえば菜奈ちゃん、愛って何? 」
「え、重すぎる」
今日は色々と重い。私にとって愛は……
「忍耐」
「なんか、ごめん」
「失礼がすぎます。とかく愛は、忍耐だと思います」
「じゃぁ、忍耐って? 」
「耐えること」
「耐えるって? 」
「我慢」
「我慢って? 」
「知りません」
問答が面倒になった。
「せやねん、その知恵があると言われている人たちも『知りません、分かりません』ってなったんよ、ソークラテースが問い続けるから。ほんでソークラテースは、『なんやこの人たち全然知らんやん。知恵なんて無いやんけ』って思ってん」
絶対にソクラテスが関西弁を使った訳ではないだろうけど話が長くなるからツッコまないようにした。マスターが少し、寂しそうな顔をした。
「問答はちょっとしんどいですね。そもそもですよ、知恵って何なんですか? ソークラテースは知ってたんですか? 」
しまった、ソークラテースと言ってしまった。
「いや、知らんかってん。だからソークラテースも知恵というものを謎解きしようって思ったんよ」
そろそろ出て来たら?とマスターに言われて、自分が椅子の下にひざまづいていたことを理解した。
「ソークラテースはな、神託に違和感を感じたんやけど、その違和感を追求していったんよ。そしてアポロン神が言いたかったことが分かってん」
「謎解きができたと? 」
「そう、こう解いたんよ」
『ソークラテースのようにこうやって知らないことを自覚して自己探究する者こそ、他の者よりも知恵がある。ソークラテース以外の者はそれを行っていない。だからソークラテースは他の者よりも知恵がある』
なるほど、スコンと腑に落ちたのか、ソクラテスは。私には、「ものは考えよう」にもとれる。これはこれで世渡りする上でたいせつな心得だ。
「それが『無知の知』なんですね」
「そう言われてるんやけど」
「けど? 」
「アポロン神殿の神託の話は弟子のプラトンの創作ちゃうかとかも言われてるし、そもそも綿密に言葉を解釈したら、時系列が違うんちゃうかとか、『無知の知』と訳すのはおかしいんとちゃうか、とか専門家の中ではハテナだらけみたいやけど、そこは僕にはどうでも良くて、彼がめっちゃ好奇心旺盛で、
人と会話するのを心から楽しんでいた人やったってことに変わりないっていうことや」
人との対話か。ソクラテスはある意味コミュ力の高い人だろうな。
「え、まさか、この椅子って」
「ちゃうちゃう、そのソークラテースさんが作ったんちゃうよ。これはな、十七世紀ジャコビアン様式の復刻版。結構ええ値段するんやで」
「でもマスターは購入した」
「そう。だって何か感じるやん。僕の好きな哲学者のひとり、ソークラテースの言葉が彫られてるんやから。僕はこれはご縁やと思って買ったつもり。この喫茶にふさわしいやろ? 」
マスターのウェービーな髪がふわりと靡いた。窓から吹き込む春風が店内にフレッシュな空気を振り撒いているようで、私の心も温かくなった。
「ソクラテスも春風を感じたのかな」
「そりゃ感じてたやろなぁ。最期は牢獄で迎えたやろうけど、それでもソクラテスはちゃんと四季を感じてたと思う」
言い方がソークラテースではなくなっていたけど、ここはツッコまないようにした。
「それで、今日のテーマは何にします? 」
私は黒板の下に移動して、白のチョークを手に取った。
そやなぁ、とマスターが宙を見上げてしばし考えている。
「縁を感じるモノ、がええな」マスターが椅子を見つめながら呟いた。
━━今日の哲学トリップ『縁を感じるモノ』
私のチョークが踊る。それくらいワクワクする今日のテーマだ。
てつがく喫茶・カタルシスで働き始めて、私もはや3年。
喫茶の名前に「てつがく」が付くけど、哲学に無知な私が働けるくらいだから、学術的に哲学を学ぶ場所ではない。
そうではなくてここは、おひとり様限定、てつがくをする場所。
知識や価値の論拠、あるいは存在の意味などを問うなどの小難しい哲学を嗜むというより、日常のスキマにある気づきや疑問を大事にする場所。
マスターにとって哲学とは、新しい視点を増やしてくれたり、余計な視点を減らしてくれたり、はたまた違った視点をもたらしてくれるマジカルスコープらしい。だからどんな気づきや疑問もここでは哲学になる、と言うのだ。
「何で僕はナポリタンが好きなんかなぁ、みたいに人が知らんがな、ってツッコミたくなるような事から、自由意志とは存在するのだろうかみたいな超人的な問いまで、何でも問うたらいいんやで」
と、最初出会った頃に話してくれた。
答えを出すことが目的ではなく、問い続けることが目的らしく、それを続ければいずれ点と点が繋がるから、とも言ってくれた。
店の名前の「カタルシス」もギリシャ語で清める、浄化、解放などの意味があるそう。
黒板の右側には、
『みんなちょっとズレている。そのズレが哲学の問いになり、あなたの生き方に価値を添える さぁ、語ルシスをしよう byマ・スター』
と、マスターの字で書かれてある。
筆圧も強くなく一定で、角に丸みがある字は、「優しい」が滲み出ているマスターそのものだ。
因みにどうして『マ・スター』なのか。
『僕の名前が間宮星やん?苗字の最初の読み方の『マ』と名前の漢字の『星』を英語読みにしただけ」と言った。
なんとも適当だった。
同時にマスターの名前の漢字が『星』であることを初めて知った。星を観ることが好きな私からしたら、羨ましい名前だとも思った。
とにかく、マスターがこんな自由な発想を持っている人だから、ここに来るお客様が哲学する方法は様々。
ひとりで自分と向き合いたい人はひとり席へ。誰かと話したい人はカウンター席に移動する。
奥の本棚には雑誌も併せて1000冊ほどの本がある。といっても、全てマスターの本ではない。
今や自費出版をしている人はたくさんいて、中には職業というよりも、ただ読んで欲しい思いで収益にこだわらない作家さんもいる。そんな人たちからの本が多数寄付される。
それだけではない。
シェアタイプの私設図書も行なっている。
本棚の区切られたスペースを月1000円で貸しているのだ。
それを聞いた時、わざわざお金を出して自分の本を置いて、更に本を貸すなんて。そんな人がいるのだろうか、と思ったけどそれがいるのだ。
私設図書には自分の蔵書を誰かとシェアできる満足感だったり、自分発信の読書好きコミュニティを形成することだったり、一つのブランディングとして自分の中にある別の顔を表現するツールになったりと、ニーズが様々にあると、ここに来て知ったのだ。
店側としても、本を仕入れなくて済むのがありがたいし、来てくれるお客様にとっても普段自分が読まないような本たちと出会えて新しい発見や視点につながるそう。
ちなみにここはおひとり様二時間までの滞在だ。二時間経ったからって別に追い出すとかはしない。ただ、マスターか私、他のスタッフがそっと声をかけに来る。
マスター曰く、『哲学する時間は長ければ長いほど良いってもんでもない。映画を観るくらいの時間がちょうどええねん』とも言っていた。
料金設定もシンプルで、一律2500円。
コーヒー、紅茶、ハーブティー、の中から選べて、お代わりもできる。一緒に付いてくるひと口サイズの焼き菓子も人気だ。
本棚の横は中庭が見えるようになっている。ちょっとした縁側になっていて、お客様は本を片手にボーッとできるリラックススペースにもなっている。
さて、今日も始まり。
一人目のお客さまは誰だろう。
カランカラン、とドアベルが鳴った。
さっきの椅子をいつもより丁寧に元の位置に戻した。
少し時間がかかってしまって「いらっしゃいませ」の入りが遅れた。悔しい。
やっぱり椅子は軽い方が……いや、椅子は別に軽くなくてもいいか、と思った。
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{あとがき}
これは小説、エッセイ、日記、コラム
そんな枠組みをとっぱらって書いたものです。
フィクションだけど、世界はある。
だから「虚構世界」と最初に付けました。
基本、てつがく喫茶の従業員の「菜奈」のひとり言です。
てつがく喫茶のマスター、間宮は哲学に詳しい人。
まだ他にもスタッフやお客さんが出てくるんでしょうね。
それを私も楽しみにしています。
また、当該世界内で登場人物が説明する哲学やその他の説明は、私が本や文献、その他で得た情報などを照らし合わせて書いております。
しかしながら正確性を保証するものでは全く無く、真偽を問うものでもございません。私の推察、想像、妄想なども入っております。
あくまで、「え、そうなの?」「本当に?」と、あなた様の哲学探し、としてお楽しみいただけましたら幸いにございます。
そんな気づきが
あなた様の人生において
最幸のミチシルベとなりますように。
しゃろん;