愛する人たちへの祈り
※この記事は宗教に関してジャッジしたりするものではなく、
私はシンガポール人のお友達から受けた質問に対して思う事があったので
自分なりの気持ちと考えを書いてみました。
ある日、シンガポール人の友達に言われた。
「私は、、、私はただ、自分と愛する人を信じる。それだけ」と答えた気がするが、的を得た答えではなかったみたいで友人は「ok…」と呟いただけだった。
ちゃらんぽらんで若くて自己中心的な当時の私は、もちろん他の人の幸せを祈ったことなど一度もなかったのだ。
この日からずいぶん時間が経ったものの未だに無宗教(というか自由な感じでやっている)なのだが、友人が言ったこのことを最近ふと思い出した。
理由は簡単だ。
私は愛する人たちの幸せと健康を本気で祈るようになったからだ。
「どうか、幸せになって欲しい。
もし今、困難に遭っているのであれば天から見守ってもらえますように」
そう心の中で色々な顔を浮かべながら祈り、願うのだ。
無宗教な私は日常的にお寺やチャーチ、モスクに行って祈ることはない。
それでも心の中で密かに捧げる、愛する人たちへの祈りは自分の中では確かに本物であり、私はいたって真剣なのだ。
宗教を信仰している人からすると「なんて自由なっ」と怒られそうだが、
それでもいいから、私は愛する人たちの幸せと健康をどうしても祈りたい。
「愛する人たち」と聞くとloversと直訳できてしまうから、
恋人だったりパートナーを思い浮かべる人が多いかもしれないが、
実際、私にはいま恋人はいないしパートナーもいない。
だとすると家族だ。もちろん家族の幸せと健康を祈るに決まっている。
だけど、それだけではない。
友達、元友達、元恋人、知り合い、元知り合いに、
「この人にはなんとしてでも絶対に幸せになって欲しい」と心の底から思う人たちがいるのだ。
・男運が悪く経験人数だけが増えていった過去をきちんと抱きしめるようになった親友
・せっかく思いを伝えてくれたのに、私のエゴと未熟さのせいで傷つけてしまった元同級生
・初めて私の目を見て「I love you」と言ってくれた、これが最後の恋愛だと思っていたのに別れを告げてきた元彼
・過去の恋愛を忘れられないのに、付き合ってすぐの彼女との間に天使ができ、結婚しパパになった仲のいい男友達
etc…
私はいちいち彼らの見た目、香り、声などを鮮明に思い出し彼らの幸せを祈る。
私の愛する人たちの中にはもう二度と会えない人や、会いたくない人もいる。だけど、それでも変わらず彼らは私の愛する人。
もう二度と会えないと分かっている愛する人に捧げる祈り
私はこれほど大きくて温かくて美しく、
そして儚げなものはないと個人的に感じている。
若かりし私は「もう二度と会えない人の幸せを祈るなんて」と言いそうなのだが、アラサーの私は少しだけ大人になれたかもしれない。
もう二度と会えなくても、例え嫌われていたとしても、
私のことなんてとっくに忘れ去ってしまっていても、
その人は私にとって愛する人には違いない。
その事実を私は本当に大切にしたいと思う。
もしかしたらこれを「未練」や「同情」「自己満足」という人がいるかもしれないが、私は「それは愛からくる祈りである」と解釈している。
他人にどう思われようとも構わない。
さて、もう一度シンガポール人である友人が投げてきたクエッションに戻る。
やっと少し自信を持って答えられるようになった。
私にとってそこに宗教の有無はむしろ問題ではなくなった。
ただそこにあるのは、私からの純粋な愛からくる祈り、願いなのだ。
皆さんはシンガポール人のお友達の問いかけに何と答えますか?
無宗教の人口が多い日本では、宗教に馴染みがない人もいるかも知れません。
私自身、むかし、マレーシアに住んでいた頃、
日本にいるより遥かに宗教そのものを身近に感じていた訳ですが、
それでもまだどうしても宗教というものが、どこか遠い存在なような気がしていました。
だけど、この年になってやっと(私はアラサー)気が付いたのは、
どの宗教を信仰していたとしても、沢山の人はもしかしたら「愛する人」のために祈りを捧げているのかもしれない、ということです。
愛する人と言えど他人は他人。
その他人の幸せ、健康、成功を祈ること自体がとても相手に対してコミットしていて、私はやっぱりそれは愛であり、とても美しいと感じました。
そして愛のかたち、祈りのかたち、には色々あるなと思うのです。
どうか私が愛する人たちに
私の祈り願いが、いつか届きますように。
※この記事は宗教に関してジャッジしたりするものではなく、
私はシンガポール人のお友達から受けた質問に対して思う事があったので
自分なりの気持ちと考えを書いてみました。
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