「あんのこと」を鑑て。母性に関する再考
ずっと、“母親”という偶像を崇め、貶し、慈しみ、嫌悪し、迷ってきた。
女は、人生の大半を母親として過ごすことを拒めば、不幸だと罵られてしまう。他方、女であることと、母として生きることの両立は困難だと言われる。女とは消費されるもので、母であることが、女の人生のゴールのような気すらさせられるが、この母という人格に、個人であることは考慮として含められない。母になることは、母という人格のみを背負って生きることを意味する。
家父長制という文化の体裁をとった人権剥奪の元、母を崇め、母という人格に求めるものが多すぎる人々が生きる今日に、男性の辛さというものについて、本文で取り立てて触れるつもりはない。母親という生き物に、何を求めて、生きていたのか、あなたが“大人”であるなら、一番よくわかっているだろう、自覚があるだろう。
仮にも、最悪のケースを想定するならば、母を愛するぐらいでは、母に個人という人格を捨てさせた業が拭えるわけではない。それほどに、所得をもてぬ女は、母という鎧をかぶり、子を産むことで、この世で生きる道を探してきたとも言える。女が不均衡な世界で築いてきたこの処世術は、母親という偶像を産み、偶像崇拝を愛として正当化させ、これは宗教ではなく自らの意思であると世間様から思われることを良しとする倫理を作り出した。これを思想が強いと評するようであれば、勉強が足りない。
社会派と評するには軽すぎる
「あんのこと」を、私はどのような目線で語れば良いのだろうか。コロナ禍で、非正規職員が真っ先に仕事をなくしたこと。高卒や海外移民たちはマスクをしない中、徹底して感染防止をする夜間学校の職員との危機管理意識の対比。シャブから結局更生できない少女、自殺、フェミニズム、毒親、家庭に介入できない福祉の限界、生活保護精度の欠陥、DV、毒親から離れられない子供、未成年の売春、立ちんぼ、漢字が読めない不登校児童、老人介護、そういう社会問題を綺麗に、バランスよく、示唆的に、演技派女優を迎え入れて、描いたものとして、評するべきだろうか。
違う。これは、父性が"本来持つべき機能”を失った社会で、母性に殺された女の話だ。
売春をする未成年の少女ーあんの物語は、シャブを打った客が強引な性交渉の直前に事故死する場面から始まる。サルベージという脱・薬物と社会復帰を目指すための自助コミュニティを主催する現役警察官多々羅が、あんに尋問し、物語が産声を上げる。唐突に取り調べ室内でヨガを始めた彼は、ラテンミュージックに身を乗せて「運動と規則正しい生活がシャブを抜くコツだ」とあんに説く。あんはその滑稽な様と、妙な間合いの空間に耐えきれなくなり、シャブを詰め先端を結んだコンドームを机上に起き、所持を自白。その後、解放され、多々羅に連れられてラーメンを食べ、介護施設で職を見つけ、多々羅の知人である記者の男も巻き込んで、サルベージを中心としたコミュニティに心のよりどころを見つけていく。
娘に客を斡旋し、高齢の祖母の健康悪化をちらつかせて売春強要と虐待を繰り返す、通称毒親である晴海とも、徐々に距離を取ることに成功し、セーフティシェルターでの一人暮らしを始め、小学校以来通えていなかった義務教育をやり直すため、夜間学校への通学に励む。不幸な家庭環境に見舞われた不良少女が、素直に努力し、徐々に社会復帰をする様を大人たち(記者や多々羅)が支える、年齢差のあるガールミーツボーイの体裁を持っているようにも見える。冒頭45分ほどまでは。
加害対象を選ぶ男、そして父親。
私は冒頭からずっと、多々羅の持つ男性特有の加害性があえて目につくような演出に、違和感を持ちながら本作品を見進めていた。売春少女であったあんに仕事の紹介をし、生活保護受給の面倒まで(結局給付されることはなかったが)見ていた多々羅は、いわば父代わりの人格を持つ。実際に、あんの家庭になぜ父親がいないのかについては言及がない。多々羅はあんが毒親である母親から自立し、成長していくためのメンターとしての役割を筋書き通りにこなしていく。しかし、ところどころ、拭えないとっかかりが節々に見えてきてしまう。
多々羅は、売春をするあんに「まずは自分を大事にするところからだ、売春はやめろ」といいつつ「夢中になれることを探せ」ともいう。その直前に、あんの生活保護受給申請に否定的な役場の職員に対し「小学校から勉強もしてねえんだから、今更すぐに働けるわけがない」と全うな反論を、多々羅は述べる。しかし、そのような少女に「没頭できることを探せ」ということも、同じぐらい構造的に考えれば加害的である。
加えて、同シーンで「火かせ」とあんにタバコのライターをよこせと頼むシーンがあり、喫煙者ではないあんはそれに断りを入れる場面がある。少女にキャバ嬢やホステスに頼むがごとく、「火かせ」という様は、普段から夜の街に出入りがあることを伺わせるようだと、解釈してしまう。
その後も多々羅が主催するサルベージでは、少し派手な服装の女性が「自分は多々羅さんのおかげで社会復帰できた」と甘ったるい声のトーンで発言し、多々羅はその女性とまんざらでもなく親密に会話する。のちに、その女性がシャブを再開してしまうタイミングで多々羅は“お仕置き”と称して、強要するような形で性交渉を要求していたことが明らかにされる。(その行動すら、劇中で『昭和の悪徳刑事みたいだな』と報道関係者が述べることで、矮小化された扱いになっていると感じるが、そう感じさせるための意図的な演出なのかもしれない)
他にも、家庭的な事情で義務教育を受けられなかったあんが数学のドリルに取り組む様にに対し「さぼったぶんとりかえせ」といったり、福祉施設での求職活動に同行したにもかかわらず漢字が読めないあんが雇用契約書を読むことに困った際にも傍観していたり、と、ぶっきらぼうなのか、愛情深いのか、解釈を混乱させるような矛盾や一貫性をかくような行動描写が目立つのだ。
私はこれを当初、多田幾があんの父親には勿論なりきれなかったことと、性交渉の強要が現職警察官としてのスキャンダルとして記者に取り沙汰され、あんの前から姿を消さざるをえなくなること。この両者の共通概念とも言える「中途半端にいわば子供であるあんの面倒を見るという役割を(自主的かどうかはさておき)放棄したこと」を示唆する描写かと考えていた。
ただ、よくよく考えてみれば、父親とはこんなものでもある。娘は大事にしていても、外の女は雑に扱い、女の種別によって態度を変え、時に加害的になる。娘をこの手で壊れ物のように抱きしめても、同じ手で外の女には暴力をふるい、性的奉仕を求める。
私の父だって、再婚して養育費を自分勝手に減額したり、私たち兄弟のキャリアが輝かしく、メディアに映えるタイミングにだけ、食事や買い物にいこうとしたり、父親になりたい時にだけ、父親として愛情らしきものを注ぐ。『父の役割』の全うは、彼の思考回路には存在しえなかった。私の人生で最も絶望と諦観と希望を同時瞬間的に感じたのは「虐待について謝れ」と電話越しに怒鳴った私に「いつ何時何秒にやられたかゆうてみい、履歴のこっとんのか」と父から告げられた時だ。
大人は謝れるもの、だという当時の私が抱いていた幻想は砕け散り、先義後利という理念を経営目標として掲げる父に冷笑を含んだ諦めを感じ、そして今後一切彼に期待をしないという勇気を得た。私の後頭部の頭蓋骨が実は少し凹んでいること、足に消えない痣や切り傷がたくさんあること、髪を引っ張って引きずられた名残で、後ろ髪をねじってしまう癖が消えないこと、それらを踏まえても、彼は全て一切、覚えていないと、言い切った。
当時隣にいた元旦那は「きっと離婚の時に、余計はことは喋らないって契約書を巻いている可能性があるから、虐待したって言質をとられたくないんだろうね」といっていた。だとしても、男気一本でホモソーシャルな経営者界隈を生き抜いている成り上がりの父が、小娘の告発1つに怯えた可能性があるとは、男も泣いてしまう。父親とは、誰かにとってはもっと暖かいものだったかもしれないが、私にとっては、こんなものだった。父からもらったルイヴィトンの80万円の鞄を友達に頼んでメルカリで売ってもらったぐらいには、私は父のことに興味を持っていない。
だから、とてつもなく、この作品における父親らしき生物がとっている矛盾を孕む発言や行動に、既視感があり、納得すらできてしまう。
こんなもんだよな、と。
自責の念は他人が創ったものでもあると、誰かが言い出さなかったのだろうか
では、あんはこうした父親になりきれなかった男たちや、はたまた周囲をとりまく母親に振り回される不幸な社会課題風刺の象徴なのか、というと、それも違う。
あんの周囲には、女性が登場しない。売春や自殺の動機となっている母親は虐待を続け、あんの自立を職場や道端や、さまざまな場所から阻み、できるだけ売春をさせ、自分に金を遣すようにする。また、あんが福祉施設で働きたい理由や、虐待されていた家に帰ってしまう要因として祖母も登場する。そうした意味ではこの2人、登場回数は多いのだが、あんの心情や行動動機の中心になっているわけではない(と私は解釈している)。
あんが冒頭、母親と同じ色の赤いカーディガンを着て、オレンジ髪で暖色に包まれた風貌だったことに対し、後半になるにつれ、寒色を纏うことが増えていく。母親から、解放されていき、関わる人が増えていく。ただ、それらは男ばかりである。介護施設のおじさん、社長、記者の男、ただら、突然預けられた子供、みんな男だ。
さらに、本作品に、多く男が存在するとは言ったが、あんが男に振り回れさているわけではない。記者の男は終盤であんが絶望の末自殺してから顔を出すほどの中途半端な関わり方で、多々羅は親代わりだったのにも関わらず猥褻なことで捕まり、使命を果たせず彼女の自殺を知り、悔しながらに涙する。突然シェルターの隣の部屋の女に息子を預けられ、育児をすることにもなる。が、振り回されているわけではない。あんは確実に男たちにある側面では尊重され、その時々に必要な資本(母親からの自立の機会、学業の機会、就労の機会、生きがいとしての育児の機会)を得ることに成功している。(これも本当に皮肉ではあるのだが)
彼女は作品後半で、再度売春をすることを半ば、強要される。「ばあさんがコロナにかかったから一回家に帰ってきてくれ」と、シェルターで預かった子供の育児に励みながら過ごしていたあんを、虚偽の理由で母親はそそのかし、子供を室内で人質にとって、「売春3本で5万円ぐらい稼いでこい、そうしたら子供を返してやる」と告げる。あんは泣きながら元客に電話をかけ、朝方になって何枚かの紙幣を握り締めておぼつかない足取りで、家に戻る。
そこには子供はいない。鳴き声がうるさいといって、母親が児相に通報し、結局子供はいないままに、助ける対象がいないままに、あれほど離れることを誓った売春を再度行なってしまったあんは絶望する。母親を殺そうとするが「親を刺せるのか、やれるのならやってみろ」と言われ、ナイフを足元に落としてしまったあんは、自身のシェルターに戻る。シャブを打ち、震え、シャブを打たなかった毎日について綴っていた日記を燃やし、自殺する。
ラストシーンで、多々羅は彼女はシャブで死んだわけじゃない、シャブはとっくに辞められていた。積み上げたものを自分で壊した自責の念で死んだんだ、と悔し涙で告げるが、その通りである。
彼女は自分の母性に殺された。いや、その母性を利用した周囲に殺されたのかもしれないが、それは知るよしもない。
子のため、誰のため
彼女が再度、距離をおいて暮らした中で売春をしたのは「子供」のためだ。特殊な点として、本作品では毒親の母親があんのことを「ママ」と呼んでいる。経済的に自立せず、売春斡旋をし、暴力をきままに振るって、あんが離れた後も各所を探し、追い詰める彼女はいわば「子ども」のようである。あんは「子ども」のままの母親、そしてその子どものままで生きてきてしまった母親を産んだ、そのまた母である祖母のために、体を売っていた。
しかし、突然にお隣さんがDV男から逃げるために、束の間に預けられた男児と出会った後には違う。子どものままの母親ではなく、男児、その子、そのものを守るために体を売った。彼女は最後に燃やした日記にも、子供が生きがいで、癒しだと認められていた。生きがいを擬似的ではあるが、母として見つけたのにも関わらず、別の意味でずっと子どもであった母親に、その生きがいを奪われ、自分が自己犠牲を払った意味を見つけられなくなり、絶望し、あんは自殺した。
母として積み重ねてきた全ての日々の目的も、守るものも失い、多々羅に教えられた「自分を大切にすること」すらできなくなり、文字通り、積み上げてきたものを自分で壊した、というか自分で壊したという体裁を彼女はとることを余儀なくさせた、周囲はそう解釈することを選んだ。さまざまな責任を負わない中途半端な関わりの大人たちの行動、それらが点と点として線となってゆき、彼女の破壊と絶望を、衝動的なようで、必然的に、呼び起こした。
母殺し
あんのことは、私には母殺しの物語に、思えてならない。
まだ子どものはずのあんのように、母性を持つことを環境柄、強要させられたあげく、目的も生きる意味も何もかもわからなくなり、壊れてしまうという筋書きは、身に覚えがある。
今では笑い話にできることだ。度重なる両親からの暴力や暴言の数々を受け流し、泣き喚き、いい折り合いや諦め所の見つけ方を模索してきたもの者として、この母性を背負う、という課題(を勝手に私が立てたのですが)には強い当事者意識を感じる。
通常ではない家庭に生まれたものとして、どれだけ他者より離れたところから自我の確立や自信の会得を模索しても、それすらも「生き急ぎ」「社会的強者の振る舞い」として捉えられてしまったり、どこまで精神的自立を多少の自傷行動を通り過ぎながら得ることができても、1mmでも経済的自立ができていない場所があれば、「お前はまだ子供だ」と言われてしまう。
子供ながら10代になる前から「暴力をふるうような機嫌の悪い状態に両親をさせない管理を行うところまでが自身の責任なのだ」と思うように勤めてきた結果、強靱な(時に損すら引き起こす)自責意識が生まれ、それは現在の経営的立場には役に立っているものの、人間的感情の吐露やその手法に困難を感じることは多い。親を管理する、というある種子どもにはマセている行動を、強要されてきた身として、完全な自立を急いでいたのだろうか。だからこそ、経済的自立のための資本形成に躍起になっていた部分があるのでは、と自分を解釈した部分もある。あんも、精神的な自立の後に、経済的自立を覚えていく順番で、描かれている。
女性が母性を背負わされる、ということの大きな問題点は、母性を持つこと、母性を軸として母らしく振る舞い、誰かの生命や人生に一定の責任をとるがため行動することの全てが「自己責任」だと過剰に捉えたがる社会があること、だと考察したい。
それにはやはり、出産の意思決定が最終的には(法的側面を無視すれば)女性に委ねられること、女性が子を産み、主体的に育てることが当たり前であることが影響しているのだろうか。お腹で1年ほど、子を育てる間に女は母になる、だから男が父親になるまでには遅れて1年かかる、などと言われるが、その通りかもしれない。
母に「お前が産んだんだから責任とれよ」と怒鳴っていた自分を考えると、いたたまれない、産んだ責任という言葉は、不均衡だ。男の産ませた責任は経済的支援や勤労で比較的達成されたような気にも思える。産んだ責任ではなく、産むことを両親で決めた責任、など良い言葉を探したところだが、出てこない。だって、産むことを最終的に決め、何ヶ月もその責任と共に人生を先立って歩み始めるのは、今のところ、女しかいないのだから。
この産んだ責任、に付随してくる呪いが、母性、母性という言葉を社会が付与した何らかの責任転嫁ではないか。
母性と父性が生物的にある程度別の役割を持つ機能や感情として、備わっていることは理解できる。しかし、どうも現代社会によっては男が女に機会を与え、その機会の中で女が生かされるという構図が、企業にも家庭にも学校にも蔓延っている。そのせいか、父性に対する責任よりも、母性に対する責任が強く追求され、母性を持つ女性の神格化、そうでない女性への忌避、母性を持つ女性の女性性の軽視、がまかりとおっている。
私は母親との間に生まれたさまざまな悔恨を整理し、人として、女性として、そして母として、この3つの人格において同等に尊敬の念を持てるまでに、何年もの月日を要した。これまで、母親という生き物に、人間としての人格を見出すことよりも、子供である自身の尊重を求めた回数の方がよっほどに多いだろう。
そういった背景を持つ私にとって、「あんのこと」が描いた(と勝手に解釈しているが)母性によって女が殺されるという構造は、自身の母親との向き合い方について再考する余地を与えた。と同時に、反出生主義であった私がここ何年かでいつか母になることを決意したことも相まって、社会に求められる母性のあり方、自身が追求した母性のあり方、この2つが仲違いし、自身やまた私の周囲の人間を押しつぶし、その母性のあり方を見た子がさらなる絶望を感じないために、どのような母になるか、どのような人を番として選ぶべきかについて、深く考えさせるものであった。
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