だとしたらどう生きるか/松尾スズキ『ふくすけ2024ー歌舞伎町黙示録ー』
松尾スズキが1991年に書いた演劇作品の4度目の再演。台本ごと書き直しての上演は初演以来初めてのこと。東京、京都、福岡と回るツアーの福岡公演初日・キャナルシティ劇場で観劇した。
十数年前にその存在を知って以来、ずっと観る機会を望んでいた作品の念願の鑑賞。そしてそれは想像を遥かに超える演劇体験だった。その衝撃をどうにか言語化したく思い、文章を書いてみる。
欲望のための存在
様々な要素が複合的に絡み合う本作だが、根幹を成すのは人間が抱える底なしの欲望である。それが何のためにあるのか、どこへ向かうのか。何も分かりはしないが、なぜだかそれを求め続ける。どんな人物も欲望のための存在でしかないのだ。
巨大な頭を持つ奇形児・フクスケはその境遇を跳ね除けるエネルギッシュなキャラクターとして描かれる。“可哀想”という眼差しを逆手に取り、自分の意のままに生きようとする。《じゃ、聞くけど俺と結婚できる?俺とセックスできる?でなきゃ親切にはさせない。励まされもしない》という問いに彼の行動原理が詰まっている。しかし自由を求めて病院を飛び出した先、コオロギによって新興宗教の御神体として祀り上げられる。人々の”救われたさ“を一心に受ける偶像にされてしまうのだ。
エスダマスは自身の双極性障害によってその人生を操られている。うつ状態では地元の男たちに弄ばれ、躁状態では歌舞伎町の風俗業界のキーマンとして持ち上げられ、都知事選にまで出馬するようになる。自分ではどうにもできぬ病を他者に利用され、自分を見失いながらも本能的にサバイブしようとている。彼女が精神のバランスを崩したのは死産が原因である。生まれてくるはずだった愛すべき存在を不意に奪われたことで、自身でもコントロールできない深淵へと引きずりこまれていくのだ。
現状に常に幸せを感じていたはずのサカエもまたある日突然、“神の声”が聞こえるようになり、それを機に自身を見捨てたコズマ三姉妹への恨みを晴らすべく宗教を巨大化させていく。そんなコズマ三姉妹(猫背椿/宍戸美和公/伊勢志摩)や、本作で狂言回しを担うルポライターのタムラ(皆川猿時)まさに他人の欲望を追いかけることでしか生きられない人物であるし、タムラと関わるフタバ(松本穂香)はホストに貢ぎ続けた自身について最期の瞬間に「あれはほんとうにあたしの人生だったのかなあ」と呆然とする。そして、フクスケを生み出した元凶・ミスミミツヒコ(松尾スズキ)もまた人とは決して共有できない欲望を抱え孤独に苛まれる人物であった。
誰がどうして、相手がこうした、というような話ではなく、欲望そのものが暴れ回っている物語と形容できるだろう。思えば舞台には巨大な穴が空いていた。演出上の機能を果たしつつ、その奈落が示す巨大な空洞はこの物語の欲望が沸き続ける穴、そして欲望が投げ込まれ続ける穴に見えて仕方がない。人間とは所詮、欲望の乗り物なのだ。
エディプス・コンプレックスを反転する
劇中でフクスケが《あ。君たちはどう生きるか!あれ、くそつまんなかった!》と大立ち回りの中で叫ぶ。2024年にこそ書けた台詞だ、と思いつつ笑ってしまったのだが終盤の展開でかなり意味のある作中引用だったことが明らかになった。
最終局面、対立する両陣営の決着点としてフクスケとエスダマスの対峙がある。お互いただ祀り上げられただけの存在だがフクスケは敵の黒幕であるとマスを認識し銃をつきつける。《許して。/私が悪かったんでしょ》とうつ病相に戻りつつあるマスは投げやりに自罰的になる。しかしフクスケは《何だか知らんが、俺に許しを請う限りは、あんたを許さないよ》と突き放す。謝罪を嫌うフクスケは怒り、セックスを迫り、マスを犯し始める。その折、フクスケとマスが実は生き別れた親子であると告げるニュースが流れる。マスが産んだ子は死んでおらず、騙されたまま14年の月日が過ぎていたのだ。
息子が母親を根源的に欲望する、というのはフロイトが説いたエディプス・コンプレックスの概念である。ある種、人間の逃れられない運命の象徴とも言える概念だ。「ふくすけ」は結果的に母と息子の近親相姦を最後に配置する。これはどれほど抗っても逆らえない運命の暗示のようもであるが、これを強引なセックスとして描くことで運命をも破壊し尽くす行為として描いているようにも思える。宮崎駿が『君たちはどう生きるか』を始めとする諸作品で描いてきた温かな母子愛に真っ向から唾を吐きかけ、エディプス・コンプレックスをも反転させる、反逆的な生命賛歌をぶつけたのが本作である。
また本作ではもう1つメタファー的なエディプス・コンプレックスが描かれる。コオロギ、サカエ、そして同居することになったフクスケの関係だ。フクスケはコオロギの血を打たれ疑似的な血縁関係の絆で結ばれる。そしてコオロギは自身の不在中にフクスケとサカエが性行為に及んだのではないか?と疑い続ける。疑似的であるが、サカエ(母)とフクスケ(息子)による根源的な欲望の存在が示唆される。息子の前に父親が立ちはだかり、その存在を示すことがエディプス・コンプレックス克服を果たす成長過程だが、コオロギはそこに立ちはだかれず、彼の強烈な男性性の不安が炙り出されてしまう。
この不安が最悪の結末へと繋がってしまう。コオロギもまた、自分自身の不安と欲望に絡めとられ、自らを苦しめるエディプス・コンプレックスを反転するためにサカエに手をかけることになるのだ。誰も幸せになれない、人間の業だけが残り続けるのだ。
本作はこのように核心部分だけを書き連ねても伝わりづらい作品であることは間違いない。なぜなら本作は会場中が爆笑に包まれるエンタメ作品でもあるからだ。これを笑えるのか、笑っていいのか、笑うしかないじゃないか。そんな戸惑いも舞台装置となる。
岸井ゆきのが溌剌と歌い踊るほど募る後ろめたさ。次々と暴かれる蓋をしてきた暗い感情。人間なんて所詮こんなもん、を冷笑せずに血眼の祭りとして描くこと。「だとしたらどう生きるか」と思い悩む我々含む人間どもに降り注ぐ歓喜の歌。目撃出来て良かった。
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