トラウマを抱きしめ合える町/『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー VOLUME 3』
※ネタバレ感想です
ジェームズ・ガンが監督するマーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)の一角をなす「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」シリーズ。その完結編である「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー VOLUME.3」は、1つの愛すべきシリーズに決着をつけるという点でこれ以上ない大団円をくれた。
現在MCUはフェイズ5の真っ只中だ。フェイズ4〜6から構成されるマルチバースサーガとなる予定で、並行世界を題材に複数の世界線の同一人物を描くことが一つの軸になりつつある。本作もまた、並行世界の(と扱わざるを得ない)ガモーラがメインで登場し、マルチバースサーガらしさを保ってはいる。
かつて愛し合った人物と同じ姿だが、違う人物ではあるというもどかしさが本作のクイル/スター・ロードの戸惑いや切なさに繋がってはいるが、物語全編を通せば、それもあくまで今この世界線を描くことを強調する要素となる。やはりこれは"君でしか意味がないと呼びかけ合う物語“だからだろう。
その名前を確かめる
本作はガーディアンズの古参メンバー、ロケット・ラクーンの出自を主軸とする物語。見た目は可愛らしいアライグマ、しかし性格は皮肉屋で毒々しく、そして頭脳明晰なあらゆるメカに精通するチームのブレーン。そんな彼が誕生したきっかけは科学者ハイ・エボリューショナリーの実験だった。
完璧な生命を作り出し、完璧な世界を作ろうとする、神にでもなったつもりのハイ・エボリューショナリーは、欠落している生物たちを受け入れず、生命としても扱わない。その振る舞いに蹂躙され続けたロケットとその仲間たちとのエピソードは壮絶だ。ロケットのなかなか他者を信用せずぶっきらぼうで、しかし寂しがり屋で優しいという愛すべきキャラクターの根っこにあったトラウマ(心的にも、肉体的にも)の痛みは、直視するのが苦しかった。
ハイ・エボリューショナリーのありのままを否定する思想は、そのままガーディアンズとの対決する意味を持つ。お互いの欠落を欠落であると認めた上で、欠落こそが強みだとも理解し合い、欠落を補い合うことで強くなる関係性でもあるというガーディアンズが対峙するに相応しいヴィランなのだ。だからこそ本作においてチームが一堂に会する瞬間のカタルシスと、そこで繰り出すアクションはただ痛快だけじゃない意義が生まれてしまっている。
ロケットがハイ・エボリューショナリーと向き合うクライマックス。ハイ・エボリューショナリーが繰り返し呼ぶ識別番号ではなく、彼は自分の名前を名乗る。自分自身で決めた、自分自身の命にまつわる名前であり、劇中で何度も何度もチームメンバーから呼びかけられるその名前を憎むべき相手へ向けたのだ。お前じゃないと意味がない、と叫び合うようなチーム全体の誇りを感じ、ロケットの生き様を全肯定した場面に涙がこぼれた。
町になったチーム
ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーは社会からはみ出したものたちが寄り集まり、自然に共同体となっていく疑似家族モノとしてのストーリーラインが象徴的だ。『VOLUME 3』においては遂に、その共同体は1つの星にまで広がっていく。チームが本拠地を置いている惑星ノーウェアは最終的に、異なる言語を話す子供たちや種別すらも無関係に様々な命が寄り集まった。
チーム、家族も越え、もはや町として共同体となっていく。1つのコミュニティの誕生を3部作のラストに据えるというのも「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」ならではの選択だ。そして、そんな風な居場所こそが互いのトラウマを抱きしめ合う場所になることを最後の大団円は示している。
このチームを愛する者としては、寂しい別れもある。別々の道を歩み始めたメンバーも多くいたからだ。しかし、こうして帰る場所が生まれたからこそ、進みたい道も見えてくるというのは1つの真理である。属することと縛られることはイコールではない。ガーディアンズのように、属することで晴れて自由になれることもある。心の安寧が、身体の自由へと繋がるのだ。
だからこそ、過去と向き合うためにクイルは地球に戻り、自分の願いを知るためにマンティスは1人旅に出る。ドラックスは救った子供たちだけでなく、仲間を襲ってきたアダム・ウォーロックの父にもなれる。そして殺人兵器として育てられたネビュラは、満面の笑みで踊った。これを自由と呼ばずして、皆が望む通りの未来じゃないとして、何だと言うのだろうか。
そして新たな「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」の舵を取るのはロケット。新しい仲間を加えてもすぐにチームだと思えるのはナイスなミュージックたちと、"幹"である頼もしいグルートがいるからだろう。変わらない信念と新たな仲間を加えながら、ガーディアンズの冒険は終わらないのだ。
そういえば、最後のほうに僕らもグルートの言葉が理解できたような気がした。「I am Groot」とは、言うなれば「あぁそれね」とか「あれね」みたいな、仲間の中でしか通じない一種の"ノリ"のような、美しく愛おしいコミュニケーションの1つだろう。そんな抽象的な言葉を理解できるようになった時、鑑賞者もチームになれたような気分になれる。僕らもまた、この町へといつでも帰ってこれる。そんな嬉しさでいっぱいになれる最高の映画だ。
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