物語を壊すために/「怪物」
大規模なワクチン接種場で、接種希望者に接種前の問診を行う業務をしていた時期がある。その人の今日の体調を尋ねたり、その人の本人確認を行うのが主な内容だ。ある日のこと。接種者の1人が自分の問診票を差し出す。そこに書いてあった名前は男性の名前だったが、目の前の人物は僕からは女性に見えた。そのため「お名前は合っていますか?」と確認する。しかしそれを口に出した瞬間に、これはとてつもなく無礼な言葉を発してしまったかも知れないと思った。「はい」と答えるその人。目を見ることも躊躇い、焦りながら問診を続け、どう言葉を出せばいいか分からないままその方は接種に向かっていった。何も言えないままその人とは二度と会うことはなかった。
これを読み、強い嫌悪を抱く人もいるだろう。こんなやつの文章を読む価値はないと思う人もいるだろう。フォローを外したい、何ならこの記事を共有して燃やしたいと思う人がいても何もおかしなことではないと思う。しかし、このことを書かずに「怪物」の話をすることはできないと思った。あの人は傷つかなくて良いはずの場所で傷ついたかもしれない、あの人はそんな無礼なことを言われ続けているからこそさらりと「はい」と返したのかもしれない。自分が持っている偏り、そして身勝手な後ろめたさ。そういうものを隠した状態で感想を書き進めることは到底できない映画だと思った。
「怪物」は登場人物が実際に体験している出来事と登場人物が語る“物語”のズレに着目した映画である。人は時に無意識の内に、時に意識的に、見たい物語を、見たがっている物語を、見るべきだとされている物語を自ら作り出していく。他者に対しての目線もまた同様に、こちら側の”物語“に影響される。どれだけ普段から思案し、注意を払っていたとしても、無意識のうちに”物語”の目線が影響し、取り返しのつかない言葉を発してしまう。まさに私自身も、「怪物」という映画の当事者の位置に置かれる人間だと言える。
思い返せば、こうした“現実”と“物語”のズレは診察場面で特に実感する。「どのような人生を送ってきたか」というエピソードは、まさにその人から語られる物語だ。他者からの言葉をどう捉えたかという認識、出来事と自分の結びつけ方、解釈と事実が重なり合って物語はできる。しかし、その人の家族などに話を聴くと同じエピソードにも別の角度が生まれる。同じ言葉や行動の意図や受け取り方の食い違いは多々ある。そしてそんな物語を訊く医療者もまた双方の物語からこちらが読み解くための物語を作る。患者を理解するために、自分の物語を完全に排除することは医療者ですら困難なのだ。
人生の物語は他者の物語に影響され形を変える。そして、その人生の物語がまた他者の物語に影響していく、、といった具合に主観的な物語が交差し合うという状況は、診察場面だけに限られない。“話を訊く”というシチュエーションに置かれるからこそ診察場面での体験が際立っているだけで、こうした物語の重なり合いはむしろ人が生きる現実そのものとも言えるだろう。
「怪物」は物語の恐ろしさを映画に込める。たとえ善意であれ他者の物語を"こうであってくれ"と願うことの傲慢さ、自分の決められた物語に戸惑う苦しさ。野次馬の噂話から、教室で起きる出来事、親子関係、あらゆる場所で起こる"物語"の暴力性を、鑑賞者の目線までも巻き込んで描いていく。
鑑賞者がこの映画はこうあるべき、こういうメッセージを含むべき、とラベリングする態度もまた誰かの物語を理想的な方向へ持っていきたいという横暴さへと結びついていく。この映画のみならず、全ての物語の行く末を主人公以外の誰も決めることはできない。つまりこれは物語を破壊するための物語なのだ。筋書きに起こせない開かれた世界。それが「怪物」の本質だ。
この映画を託された自分はどう生きていくのだろうか。少なくとも、診療場面、対人の場面においては、目の前に座る人の"開かれた世界"を、読み解いたり、解釈することなく、"抱える"という感覚で知っていきたいと思う。それこそが、その人と関係しようとする態度として今できる最大限のことではないか。もはや"関係しようとすること"自体が暴力だと思えてくるような瞬間も多々あるはずだが、その恐れもまた怪物として自分に立ちはだかっているものだろう。物語を壊し、あなたと向き合える自分でありたい。