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2024→2025付近の雑感

年末年始はやたらと時間があって頭がどうも回ってしまう。B’zがダサいだの何だのといった種の話にまんまと乗ってしまいあれこれ盛り上がってしまうのは完全にこの“やたらとある時間”のせいだと思うのだが、色々考えても常にまとまることはなく流れがちである。しかし今年は書き残さないと気が済まない話が胸にあるため、つらつらと書いてみる。まだまだ考え続けたいことばかり。


星野源「ばらばら」の話

年末、頭から離れなかったのが星野源が「紅白歌合戦」で歌う楽曲の変更である。当初「地獄でなぜ悪い」がNHK側からの打診で披露曲として予定されていたが、主題歌だった同名映画の監督が性加害を行った過去があり、事件を想起させるという理由で「ばらばら」に変更になった。

星野源、NHK両方の声明を照合すると寄せられた”さまざまな意見“を踏まえ協議し、二次加害の可能性を否定できないという結論に達したと考えられる。なるほど、と頭では納得しつつ、「本当に曲を変えるのか、、」と絶句もした。NHKで大晦日に「地獄でなぜ悪い」を演ることをどのレベルの二次加害リスクと捉えるかは当然、人それぞれに違うと思うのだが私としてはあまりに間接的すぎると思ってしまった。ただ星野源サイドの判断は異なり、この結論に至った。それはよく分かる。

しかしSNSで発せられていたこの決定に影響したであろう”さまざまな意見“の大半が、彼が「地獄でなぜ悪い」を歌うという表現そのものを眼差しているとは到底思えないような内容ばかりだった。性加害や二次加害という単語だけがピックアップされ飛躍した関連を与えながらこの結論へ向かわせているようにしか見えなかったのだ。

この楽曲変更は表現物の、表現者の絶対的に守られていたはずのラインを踏み越えられたように感じてしまった。何をリスクと取るのか、これは考えれば考えるほど確かに難しくはあるし、星野源の対応はこれ以上ない。しかしこうした逡巡を経ることなく、「真摯に対応していただいた」「英断に思います」といったコメントを残して胸を撫で下ろしている“意見者”たちの言葉は目も当てられないと思った。表現とはかくも脆くさせられねばならないものなのかと頭を抱えるしかなかった。

星野源が今ここで「地獄でなぜ悪い」を演ることは、そうした忌まわしいイメージをも飲み干して、楽曲に刻んでいたナラティブを自分の手に取り戻し、誰しもが《悲しい記憶に勝つ》ための時間になるのではないかと期待している自分がいた。しかしそれは”真摯で誠実な対応“を前に実現することはなかった。ある面ではこれで良かった違いない。ある面ではひどくやるせなかった。


演奏曲は「ばらばら」に変更になった。一つになれない世界の中で重なり合う場所を探る、ギリギリの祈りの曲だと私は思っている。この楽曲をこの局面で披露するのは表現者としての意地として受け取ったし、強い批評性と必然性を帯びた恐るべき1曲に思った。皮肉や悪意とまでは思わないが諦念は感じていた折、こうした「ばらばら」の反響に対しても「皮肉なはずはない」「真面目なフリして舌を出しているとでも思っているのか」といった種の”さまざまな意見“が寄せられた。

これにこそ最も重い気持ちになったかもしれない。音楽の響き方や捉え方、歌詞の解釈などはその時の気分で一変するものであるはずで、そこには豊かなグラデーションがあるはずだ。皮肉や虚無を受け取ってもいい、それもその時々で違っていいはずなのに、全てを正義の名のもとに塗り込めようとする言葉たちに心底苛立った。というより、これほどまでに表現を受け取ること、解釈することは難しくなってしまったのかと思った。

かくして披露された「ばらばら」は、はっきりと凄まじかった。私も含めきっと多くのリスナーはそれこそばらばらになった様々な感情を抱きながら疲弊しつつ観たはずだ。そして誰よりも疲弊しているように見えた星野源が平然とした表情を保ちつつ力強く届けた《本物はあなた/わたしも本物》という歌詞変更(原曲は”わたしは偽物“)に心を掴まれた。これこそが表現者が地獄が見出した意地であり、誰しもに開かれた祈りだ。なんと“真摯”で”誠実“な表現者なのかと感服した。

意見を言うだけ言って当日の放送を観ていない意見者は論外だとして(私は名のある人物は全員チェックした)、この凄まじく複層的で批評的な演奏を見て、ただ「素晴らしかったと思います」「曲が変更になって良かったと思います」とほざくようなライターや評論家にだけはなってはならないとこれ以上なく強く思った。お前は何を観ていたのか?この表現の何を理解ろうとしていたのか?そしてお前は何のために書くのか?金か?それを問いたい。問い詰めたいと心の底から思った。


そうとしか見れない

1/2に放送された鎌倉を舞台にした新春スペシャルドラマ「スロウトレイン」が素晴らしかった。特に面白く思えたのは星野源演じる作家・百目鬼見というキャラクター。担当を外れたはずの編集者・渋谷葉子(松たか子)としぶとく交流を持ち、挙句マッチングアプリで良い人を探すように図々しく勧める有害な種類の人物として登場したが、実は葉子の弟・潮(松坂桃李)の恋人でありその行動の裏には葉子と潮を引き離す目的があった。

重要に思えたのは、百目鬼が自分本意な人物であることが一貫していた点だ。葉子に対するお節介の本質は変わらないし、潮が江ノ電の仕事が好きであることを知っているはずなのに東京のタワマンで同居しようとする。色々な要素が折り重なっている人物なのは分かるが、どことなく漂う“なんだコイツ”と言いたくなる感じ。簡単には納得させない、複雑な魅力のあるキャラと言える。

私は星野源がこのような有害性のあるキャラクターを演じて欲しいとここ最近は常々思っていた。柔和で陰のある人物や、冷徹だが情に厚い人物などを演じてばかりだったこの数年の物足りなさと言ったら!私が彼と出会ったのは「未来講師めぐる」のエロビデオ先生なので、この数年のソフトでクール、そして“誠実”な役柄にこそギャップを感じていた。こればかりが彼ではないだろ、と。

年末に起きたこの誠実な真摯さを求められる事態というのは、彼の普段の姿勢もあると思うが、俳優の仕事においても固まりすぎてしまったイメージも遠からず影響しているように思う。当然、曲を変更してくれるだろう、だって星野源なのだから。そうとしか見れない人々の存在が伺える。


ドラマ「スロウトレイン」に描かれていたことでもあるが、たとえば家族の形1つとっても様々であっていいし、暮らしも、パーソナリティも、性指向だってどんなものであってもいい、明かさなくていいし、明かしたっていいはずだ。しかしこうした複層的な作品は時に、旧来的な価値観か現代的な価値観のどちらかいずれに振り切れるような論調を巻き起こすことがある。「ふてほど」もそうした作品と言えるだろう。今、「ふてほど」を野木作品と並べるなんてコイツは終わってると思った読み手の方もいらっしゃると思うが、まさにそういうことである。私はあの作品から複層的なものを受け取っているし、そうでない人もいる。なのに、あの作品を評価していること自体があり得ないことであるとすらみなす人もいることが恐ろしいのだ。

人においても、作品においても“どちらもある”ということを受容できない。“そうとしか見れない”という受け取り手が多すぎるように思うこの問題。これは作品に内蔵された問いかけを有耶無耶にし、簡単な結論を即急に出す考察やファスト映画のトレンドを加速させてはいないだろうか。


年末、衝撃を受けたドキュメンタリー映画「どうすればよかったか?」。統合失調症の症状が出ながらも適切な治療を受けられないまま父と母に自宅で見守られ続ける女性を、弟である監督が家族とともに捉えた記録である。タイトルにあるのはまさに問いであり、考え続けたい内容だった。

一面を切り取ればこれは”毒親“の話になるだろうし、もしくは家父長制の問題としても語られよう。というか作品の感想としてそれらは散見されている。確かにそれも間違いではない。しかし、当然それだけではない。そうとしか見れないのであれば、これが映画である意味がないだろう。自分の語りたい内容に引き寄せて作品を語る、自分の言いたいことのために作品を消費する。これもまた、表現を無碍にする見方に思えてならない。


M-1グランプリ2024で準優勝となったバッテリィズのエースをこれでもかとピュアな人物として見たがる人々からの支持を集めブレイクを果たしつつあるのも危ういように思う。今後、彼がその人たちの期待に外れた行動を取った時、どうなってしまうのか。「この作品はこうあるべき」「この人はこうあってくれるはずだ」という見方の過剰化。何かが行き詰まりつつある兆候だと思う。



曖昧さを思うために

年末は非常に沈んだ気分でいたが、年が明けてから幾分前向きになれたのは、こうした"そうとしか見れない"問題を見つめながら、新しい語り口を探ろうとしている人たちのことを観ることができたからだ。

NHKの正月恒例番組「あたらしいテレビ」。クリエイター座談会における山中瑶子監督(「ナミビアの砂漠」)のスタンスに未来を託したくなる一方、トレンドをただ語る答え合わせのような会に終始していたもう1方の座談会はやや物足りなかった。しかしそんな時間の中でずっと居心地悪そうにしていたTaiTan(Dos Monos)が最後のほうに放った言葉は強烈に重要に思った。

「あれ観てない、これ観てないみたいな強迫観念に追い回されてるようなコンテンツの今の状況って凄い不健全」「そんな風に消費するようなものばっかり増えちゃうとコンテンツが本来持っているポテンシャルみたいなものを軽んじることになるのがちょっと怖い」。ここまでぼんやりと考えてきた作品に内蔵された本質が速い消費でおざなりにされていくことへの懸念を見事に言い当ててくれていた。彼は自身のポッドキャスト「奇奇怪怪」でも最近はカルチャー語りに慎重になっているような面がある。簡単に消費せず、考えていくことを実践している姿は同世代として頼もしいものに映る。



そしてこちらもTaitanが出演者に名を連ねていた「令和ロマンの娯楽がたり」。正確な理論の連打で少しばかり正論めいたものだけが浮かび上がってくるタイミングにおいて投入される永野のトリックスターっぷりも素晴らしかったのだが、やはり令和ロマン・高比良くるま氏の在り方はお笑いシーンのみならずこの時代のゲームチェンジャーになり得ると思えた。

とにかく彼は徹底的に自分が主体として対象に挑むことでルールの内側で従来のものを打ち崩していく。過剰にゲーム化したM-1を攻略し、権威を無効化させて面白い漫才を純粋に楽しむ場へと回帰させようとした。何もかもが考察という名の消費に絡めとられる中、せめてお笑いだけは自由なものにと「漫才過剰考察」で考察し尽くしてみせた。こうした彼のアクロバティックなアプローチこそ、定量的な正解を求め、"そうとしか見れない"状態になってしまった受け取り手たちに豊かな見方を提示し得るものになるのではないか。こちらも今年これからどうなっていくのか、ずっと注視したい。


あれこれと書いてきたが、あらゆるものの"曖昧さ"を思えるかどうか、それだけである。どちらでもある、そうとも見える、そういうもののそのものを受け取り続けようとすること。きっと今の状況は誰か1人のゲームチェンジャーや、鋭い論客の一言で一変することはないだろう。しかし、だからこそ曖昧さを思いながら、しぶとく丁寧に言葉を紡いでいく。これを続けていくしかないのだ。そんなことを思いながら、今年もやっていこう。平熱なブチギレを胸に抱え、二項対立に持ち込ませず、豊かな言葉を信じようと思う。




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