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医療でドラマを描くということ/宮藤官九郎「新宿野戦病院」

宮藤官九郎、今年3本目の連続ドラマ「新宿野戦病院」。新宿・歌舞伎町に立つ聖まごころ病院を舞台に、美容整形外科医の高峰亨(仲野太賀)、アメリカ帰りの元軍医ヨウコ・ニシ・フリーマン(小池栄子)ら医者たちと、スタッフ、そして患者たちの関わり合いを描く作品である。もちろんコメディだ。

私はエンタメ作品において、医療モノというジャンルを苦手としている。ドラマの展開として“患者が助かる”か“患者が助からない”しか見どころがないという偏見が強かったからだ。大好きな宮藤官九郎だが今回は医療ドラマか、、と最初は疑い半分で観始めところ、驚くほどに面白く、そして医師としての自分へと還元できるメッセージが多く散りばめられたドラマだった。


勇気づけられるリアル

まず驚いたのは第1話の冒頭からお金の話をし続けていたことだ。治療費未払い、時間外対応加算、、市中病院の経済というシビアな話題。綺麗ごとで”慈善事業“を描くつもりはないと確信できる導入部だ。そして働くモチベーションが平凡かつ決して優秀ではない医者たちを描く様も信頼できた。ヨウコは腕は確かだがとにかく雑。みんながみんな華麗なスーパードクターじゃない。そんな当たり前をドラマとして描こうとする気概が感じ取れた。

しかし漏れなく医療の本質を真正面から描いてもいる。本作では“誰にとっても平等に開かれるべきである”という医療の在るべき形が歌舞伎町の様々な人々を包摂しながら描かれるのだ。第1話、事件の被害者と加害者が隣り合わせになったオペ室をヨウコは行ったり来たりしてベストを尽くす。あの忙しない反復こそが、医師として平等を体現するための泥臭さだ。第8話で描かれた放火事件においても、命だけは平等であるという信念が貫かれた。


第2話で描かれたのホスト依存やトー横キッズのオーバードーズ。自分が抱えている問題に対する逃避や刹那の享楽への依存というのが主題となる回で、これは現代における普遍的な問題と言えるだろう。いかにしてこの現実から離れるかという願いに依拠する苦しさに対峙し、ヨウコは決して死なせず生の側へと力づくで引き摺り込む。彼女のパワフルなエナジーが有無を言わせず生命力をブーストさせていく。

私は精神科医として診察場面において様々な葛藤に苛まれる。拘留を終えたばかりの性犯罪者を診察する時。何度となく市販薬でオーバードーズを繰り返す若者を診察する時。自分の中に芽生える暗澹なる気持ちや虚しさに飲み込まれそうになる。このドラマで医師たちが直面する感情を確かに知っているからこそ、皆が悩みながら、時に豪胆に挑んでゆく治療や発する言葉に不意に勇気づけられる。滅茶苦茶なようで間違いなく芯を食っているのだ。


第5話、ホームレスのシゲさん(新井康弘)の看取りが描かれるシーン。死の直前においてもこのドラマのエナジーはタフに機能する。ヨウコは心臓マッサージを続けながら周りに「笑え!笑え!」と言い続け、周囲の全員が大爆笑しながら心肺停止を迎える。決してふざけているわけではない。ヨウコは戦場でもう助からない人に「Laugh(笑え)」と言うのだ。笑えば脳が錯覚して臓器を動かし始めることがある。だから「笑え!」と繰り返したのだ。

コメディで命を扱うこと。どんな瞬間にも笑いは起こり得ること。本作を象徴するシーンだろう。彼の死後にシゲさんの生い立ちを述べるナレーションが流れた時、笑いと共に命の尊さを描く誠実さを強く感じた。家族も身寄りもいない人の看取りを私も行うことがある。そんな折、ひとときでもその人が歩んできた人生を思うことの大切さ。誰1人として取りこぼさないという決意。これ以上なく勇気づけられるリアルな態度がこのドラマにはある。


知っているようで知らないようで知っている

シゲさんのくだりにも顕著だが、本作は社会問題を扱いつつもそこに生きる人間1人1人を描こうとする姿勢を感じる。第2話以降、マユ(伊東蒼)という高校生の物語が数話かけて描かれる。彼女は母親からはネグレクトを受け、母親の交際相手から性暴力を受けている。オーバードーズをきっかけに聖まごころ病院と関わりを持ち、ヨウコの振る舞いに感化されて自分で足を進め始める。

劇中、マユは自分自身を指し”そういうドラマの可哀想な役”という旨のメタ台詞を発する。メッセージのために1話きりで消費されるような、社会派ポルノとでも言うべき記号としての“可哀想”という扱いには絶対に抗おうとする意志を表明する描き方に思えた。宮藤官九郎のドラマには珍しく血縁を捨てるという選択を示し、病院内やNPOを中心とした血縁ではない繋がりが彼女の進む道を温かく照らすのだ。

第4話、手術を終えたヨウコが同僚たちの名前を呼びながら1人ずつ抱擁していくシーンがある。たまたまそこに居合わせたマユもその抱擁を受ける。すっかりマユは聖まごころの繋がりの中にいたと気付かされる印象的なシーンだ。簡単に深入りはせず基本は放っておきながら、でも確かにそこにいることを見つめてはいるというようなこの”繋がり“は、他の登場人物の描き方においても同様である。

例えば南舞(橋本愛)は昼はNPOで働き、夜はSMクラブの女王様という二つの顔が描かれるがこのことを騒いでいたのはまごころの医師たちだけで、本人の意志が示されて以降は殊更にトピックスとして描かれない。看護師・堀井忍(塚地武雅)のエピソードもまた本人の意思が尊重され、男でも女でも、どんな在り方でもいいという世界への肯定が程よい繋がりの中で描かれる。はずき(平岩紙)が抱えていた苦しみはやや消化不良に思えたものの、彼女もまた繋がりの中に身を置くことを自ら選び、自らのやり方でその場にいる。


医療事務の白木(高畑淳子)は横山先生(岡部たかし)が結婚していることを全く覚えはしないが誰よりも病院のことを知っているし、院長(柄本明)も外科的手技はほぼ不可能だが必要な存在として存在する。「知ってるようで知らないようで知ってる」、そんな距離感で果たされるコミュニケーションや相互理解を通して、人はいかに他者と関係していけるかという話をし続けるのだ。

劇中に「3年後じゃ自分がSなのかMなのか分かんねぇよ」というセリフがある。これは舞のSM業の予約が3年先まで埋まっているというくだりを受けて発せられたもので、かなり笑ってしまったのだがこれは本作の本質を的確に言い当てた台詞ではないだろうか。人間の流動性を踏まえ、すぐに結論を出さないという意味において、である。善悪や正誤をスパッと区別せず、手っ取り早い答えも求めず、その場所で留まり抱えておくこと。“放っておきつつ見つめること”をとびきりコメディな台詞を通して描いているように思えた。


”平等“を眼差す

聖まごころ病院は物語が進むにつれ、行き場のない人々のサードプレイスとしての側面が色濃くなっていく。そしてそれは継続視聴者もしかりだ。ヨウコが白木を言い間違える様に笑い、ペヤングを探す堀井さんに笑い、白木と間違えられるシラキに笑う。お馴染みのくだりが定着するに伴って我々もまた画面の向こうに精神的なサードプレイスを見出す。コメディドラマの醍醐味だ。

しかしラスト2話、現在より先の未来で起こる未知のウイルスが猛威を振るい事態は一変する。ここまで描かれてきたほどよい繋がりは一斉に途絶え、病院内にも緊張感が走る。2020年の春先を思い出すほかない、皆が手探りに不安をぶつけあう日々が描かれるのだ。誰も彼もが感染し得る、そして死に至り得る。これ程までに冷たいタッチでも“平等”を描く鋭い脚本運びと言える。


最終話はウイルスがしばし落ち着いてはいるものの、まだまだ感染リスクは高いという世界が描かれ、現実世界の今この瞬間とも重なってゆく。そんな時期に起きた事故でまごころの医者は感染を顧みずに多くのケガ人をさばき、その後に訪れた第2波にも真正面から立ち向かう。そんなまごころの前に現れたのは舞の父親で、歌舞伎町の風俗王・南錠一郎(松尾スズキ)だ。

松尾スズキはかつて「好きな言葉は平等です。だってあり得ないじゃないですか」とインタビューで答えていたという。そしてこの『新宿野戦病院』と偶然にも同じ時期に歌舞伎町を舞台にした演劇『ふくすけ2024-歌舞伎町黙示録-』を上演していた。壮絶な人生という"不平等"を抱えながらも生きるという反逆を描き出す欲望まみれの人間賛歌といった作品で、自分自身があり得ないと考えている”平等"について血眼で思考するような傑作であった。

松尾スズキと宮藤官九郎。大人計画における師弟のような、同志のような、もっと言えば父子のような関係性と言える2人が同じタイミングで同じ場所を舞台に"平等"を違う角度から眼差した作品を生んだ点はとても興味深い。常に露悪的に人間の本性を抉り出す松尾スズキを、最後の最後で救いの手を差し伸べてくれる"平等"の導き手としてキャスティングしたのは宮藤官九郎からの共闘の誘いのようでもあり、同時に父殺しのように思えた。ゆえに本作はクドカンがまた一段階先に進んだ印象を与える。

口ではなく手を動かす。最前線で批判に晒されながらも自分のやり方で挑む。ワイドショーが偏向報道で誹謗中傷を煽り、誰かがSNS上で粗探しをしている間にも、現場で泥臭く命の"平等"のために動き回っている人たちがおり、本作はその姿を真摯に捉える。宮藤官九郎が"平等"を眼差し、そして手を動かし、放送前から批判に晒されながらも自分のやり方でコロナ禍に挑んだこの物語はこれ以上ない人間賛歌として時代に刻み付けられるだろう。


最終的に"医療は慈善事業ではない"という点にも回帰してゆくし、パンデミック後のメンタルケアの重要性についての言及もあり、雑なようでいて重要な話を必ず語っているドラマに思えた。医療をミステリーに用いたり、院内政治のドロドロを描いたりすることのない、本当な意味で医療でドラマを描くことをやり切っていた。私はこんな医療ドラマが観たかったのだ。

きっと聖まごころ病院で働けばとんでもなく沢山の経験を積めるだろう。常勤はきっとハードだと思うので、まずは週1回の非常勤からで。それならば全力で頑張りたい。しかし、こんな風に“ちゃんと働きたくなるエンタメ”というのにも初めて出会った。クドカンは凄い。貴方にはまだまだ書いてほしいことが沢山ある。同じ時代を生きることができて心底嬉しい。


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