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フジファブリックと「ここは退屈迎えに来て」

近年、フジファブリックの「若者のすべて」がポピュラーな夏の終わりナンバーと化していることに複雑な思いを抱えてる。2007年、「Surfer King」「パッション・フルーツ」と珍奇な曲が立て続けにリリースされた後に出た突然のメランコリックで切ないシングル曲。「あれ?名曲じゃん、、、」と2chなどでじわじわ高まる人気をリアルタイムで感じていた中学2年生の僕としては、この福岡のハズレにある港町でこの曲を知ってるのなんて僕だけやろ、と誇らしかった。

その後、2010年のBank Bandのカバー、2013年の月9ドラマ「サマーヌード」での挿入歌起用、そしていつしか「あぁフジファブリックね~、若者のすべての!」みたいな認識までされるようになった。突発的なバズというより、年々人気が高まった感じはとても素晴らしいことで、本当に曲の良さで知られてるんだなぁと。きっと、僕の故郷の同級生たちも知ってるんだろうなぁと。あの頃は知らなかったのになぁ、あの頃、フジファブリックの話なんてしてなかったじゃんって、したかったじゃんって。そういう複雑な思い。

地方に暮らす女性たちの心情を描いた山内マリコの連作小説集を、橋本愛、門脇麦、成田凌主演で映画化した「ここは退屈迎えに来て」。否応なく僕も故郷のことを思い返すことになった。10代後半にとっては閉塞感しかない、20代後半となっては馴染むしかないくすんだ地方都市で、唯一の輝きだった学園の人気者・椎名くん(成田凌)を取り巻く人間模様が、複数の時系列を往来しながら描かれていく。ショッピングモール、チェーン店、だだっ広い車道で構成される行き詰まり感と息詰まり感、ひたすらにパッとしなかった。

同原作者の「アズミ・ハルコは行方不明」もまた地方都市からの逃避を描いていた作品だったが、フィクショナルな飛躍が重要なキーだった。しかしこちらは違う。ひたすら生々しく、あの頃、この町、あの東京、この自分への郷愁、嫌悪、羨望、落胆が書き連ねられている。学校の人気者を中心に作られる世界という構造は「桐島、部活やめるってよ」にも通ずるものだが、キャッチコピー通り、今作ではそんな人それぞれの青春の先に待つものを扱ってある。

根も葉もないヤリマン認定を受ける都落ち元アイドル(内田理央)と、彼女のマイペースな親友(岸井ゆきの)がファミレスで駄弁るシーンがとても良かった。去年、帰省した時に地元の某コンビニに立ち寄った際に、中学のイケてた同級生女子が、駐車場でファミチキ食いちぎってる現場に遭遇するという、ドラマも何もない再会の場面を思い出した。あの時思った、何とも言い難い、小さな「なんだこれ」が作品の中に入り込んでて、恥ずかしくもあり、愛おしく思った。きっと彼女たちはこういう映画を観ない。そんな確信もまた、僕の日々と映画が地続きであるような気にさせてくれた。

そんな観察者の視点で楽しめるモチーフだなと思ってたのだけど、次に視線は自分へと向かう。ポップカルチャーに囲まれて仕事してたかもしれない未来や、作品なんかを作ったりして成功してたかもしれない可能性をどこかで信じながらも、失敗を恐れて目を背け、社会的な良好さとか安定にすがって今の仕事を決めた僕もまた、この劇中に描かれる「何にもなれてなさ」を抱える人間であったことにはたと気づいた。

強く印象に残っているのは、終盤、フジファブリックの名曲「茜色の夕日」が門脇麦によって口ずさまれるシーン。大好きだった椎名くんと別れ、地元の残り物男と寝た自分に嫌気が差し、ラブホテルを飛び出して明け方の歩道をひとり歩きながら。涙声になりながら「忘れることは出来ないな そんなことを思ってしまった」と。彼女の持つ虚無感と情けなさが、昔好きだった曲に乗せて溢れ出してしまう。至極の美しさとやるせなさを持った長回しカットだった。

「茜色の夕日」は、フジファブリックのソングライター志村正彦が、上京してすぐに故郷の山梨を思って書いた曲である。「東京の空の星は見えないときかされていたけど 見えないこともないんだな そんなことを思ってしまった」というフレーズがある。志村にとっての凱旋公演となった2008年の富士五湖文化センターでのライブ。アンコールでの「この曲を歌うためにずっと頑張ってきたんだと思います。」というMCの後、「茜色の夕日」は演奏された。ミュージシャンになりたくて上京し、時にありふれた生活に憧れながらも、ファンを着実に獲得しながら、ファンだけで地元の会場をいっぱいにしたこの日。彼の万感の思いは、溢れる涙として表出し、言葉を詰まらせ歌えなくなる瞬間があった。長年の思いが報われたことが、誰の目にも明らかになった美しい演奏だった。

この作品中で橋本愛が演じる主人公は、東京で10年働いたのち、出戻りして地方誌のライターとなった女性。東京で何者にもなれなかった彼女は、当時のあこがれだった椎名くんを、友人(柳ゆり菜)と共に取材するというのがこの物語の芯である。途中で、冴えない同級生だった新保くん(渡辺大知)との邂逅もあり、この軸もまた映画の重要なファクターとなる。そしてこの4人がクライマックスにそれぞれの思いを抱え、それぞれの言葉としか思えない歌詞を用いて、「茜色の夕日」を歌い連ねていく。

とりわけ橋本愛が夜道を走る車の助手席でぼんやりと口ずさむシーン。何も成し遂げられずに戻ってきたこの町でこの曲を歌うという場面は、志村正彦のそれと比較してある種の皮肉を伴う。口ずさむことでやりきれない切なさは増幅し、胸がいっぱいになってはち切れそうになる。「僕じゃきっと出来ないな 本音を言うことも出来ないな 無責任でいいなラララ そんなことを思ってしまった しまった しまった」のこの最後の「しまった」のか細い囁きが今も耳に残って離れない。

映画は、圧倒的な苦々しさをもって終わる。しかしこの苦々しさは、この世界を生きる上で障壁となるほどのものではない。あってもなくても変わらない、普遍的な感情。しかし、心に暫くの間、ざわめきを残してやまない。フロントガラス越しに国道を走る景色が流れるエンドロールでは、フジファブリックが書き下ろした主題歌「Water Lily Flower」が流れる。優しげなメロディがパッとしない世界をほんの少し彩る。一転して、声を張り上げるサビでは、劇中では描かれなかった熱を持った感傷が爆発しているようにも聴こえる。それをそっと心に仕舞い込むように、Aメロに戻ってこの曲は終わる。「ここは退屈迎えに来て」における感情の揺れを凝縮した素晴らしい主題歌。

あの頃、フジファブリックを共有できなかった地元の同級生たちがどんな暮らしをしているか、ほとんど知らない。僕は、正直言うと地元をダサい町だと思って、東京とまではいかないけれど都市部に逃げてきた身だ。しかし、「何にもなれなさ」を抱え、どことなく退屈だ。どこにいたって誰もが退屈を抱える。逃げるか立ち向かうか受け入れるか。いずれにしても、「さあもう進んでくんだろう 昨日を追っているよりも 明日を待っているよりも」という「Water Lily Flower」を締めくくるこの言葉は、諦念すらも美しくほぐして、僕らの日々へとパスしてくれている。あの頃、フジファブリックを共有できなかった、きっと今は「若者のすべて」だけは知っているであろう彼らにも届いてほしい。「若者のすべて」もいいけど、こっちもね!って。

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