見出し画像

ヨーガの意味~聖典における定義~

バガヴァッドギーター2章48節
योगस्थः कुरु कर्माणि सङ्गं त्यक्त्वा धनञ्जय ।
सिद्ध्यसिद्ध्योः समो भूत्वा समत्वं योग उच्छते ॥४८॥
yogasthaḥ kuru karmāṇi - saṅgaṃ tyaktvā dhanañjaya
siddhyasiddhyoḥ samo bhūtvā - samatvaṃ yoga ucchate (2-48)
「ダナンジャヤ(アルジュナ)よ。成功も失敗も同じ見方に留まり、執着を手放し、ヨーガにしっかりと根付いて行いをしなさい。サマットヴァ(考えが偏見なく平静であること)がヨーガと呼ばれる」


人は行いとその結果のサイクルの中で人生を送っている。
行いとは「選択」のこと。
一瞬一瞬、人は「するか、しないか、するならどんな風にするか」を決めて
人生を送っている。
人間以外の生物には基本的にはその機能はないらしい。
そして、選択できるが故に、迷う。
迷うのが人間。
結果ばかりを気にして生きているのが普通の人間。

この一節では「行いの結果を受け取る心構え」のことが言われている。

成功も失敗も同じ見方に留まる。
どういう意味か?
期待通りの結果(これを”成功”と呼ぶ)も、
期待とは異なる結果(これを”失敗”と呼ぶ)も、
ある見方をすれば「同じ」に見える。

どんな見方か?

私は「行いをする人」だが、
私は「行いの結果を出す人」ではない。
結果は自分の手の内にはない。
行いと結果は繋がっているが、
自分の行いだけで結果が決まるわけではない。

どれだけ勝負に勝ちたいと思って努力しても、
相手が私以上に努力していれば、負けることもある。
(※行いが無意味だと言っているのではありませんのでご注意を)

結果を出す人は誰か?
行いの結果は、行いをした後に、宇宙の法則を通して返ってくる。
行いの結果を決めるのは、
私のちっぽけな頭では到底見通すことができない、宇宙の法則。
それをイーシュワラやダルマと呼ぶ。
行いの結果は私が作っているのではない。イーシュワラが作っている。
イーシュワラから私に対するプラサーダ(贈り物)が、行いの結果。
私がした行いにふさわしい結果を、イーシュワラが与えてくれている。

人に優しくすれば、誰かから優しくされる。
人を傷付ければ、誰かから傷付けられる。
自然を守れば、自然から守られる。

私の視点で思い込んでいる成功も失敗も、
イーシュワラからの贈り物という点では同じ。
そんな見方を持てるように成熟することがヨーガ。


バガヴァッドギーター2章50節
बुद्धियुक्तो जहातीह उभे सुकृतदुष्कृते ।
तस्माद्योगाय युज्यस्व योगः कर्मसु कौशलम् ॥५०॥
buddhiyukto jahātīha - ubhe sukṛtaduṣkṛte
tasmādyogāya yujyasva - yogaḥ karmasu kauśalam (2-50)
「サマットヴァの知性を授かった人はこの世界でのプンニャ(良い行いの結果)もパーパ(悪い行いの結果)も手放す。ですから、自分をヨーガに没頭させなさい。ヨーガとはカルマ(行い)の中にカウシャラ(思慮分別)を持つことだ」


では、行いはどうでもよいのか?
いいえ、とても大事です。
この一節ではそのことが言われています。

私は行い手です。
私は行い手として世界と関わっています。
行いは意味がある。結果と繋がっている。

私は丁寧に行いを選びます。
小さな頭しか持っていませんが、小さな視野しか見えていませんが、
なるべく丁寧に、調和をもって世界と関わりたいです。

間違った選択をするかもしれませんが、
自分で考えて、なるべく正しいと思える選択をしたいです。
そんな心構えを持てるように成熟することがヨーガ。


バガヴァッドギーター6章22節&23節
यं लब्ध्वा चापरं लाभं मन्यते नाधिकं ततः ।
यस्मिन् स्थितो न दुःखेन गुरुणापि विचाल्यते ॥२२॥
yaṃ labdhvā cāparaṃ lābham - manyate nādhikaṃ tataḥ
yasmin sthito na duḥkhena - guruṇāpi vicālyate (6-22)
तं विद्याद् दुःखसंयोगवियोगं योगसञ्ज्ञितम् ।
स निश्चयेन योक्तव्यो योगोऽनिर्विण्णचेतसा ॥२३॥
taṃ vidyād duḥkhasaṃyogaviyogaṃ yogasañjñitam
sa niścayena yoktavyaḥ - yogo’nirviṇṇacetasā (6-23)
「そして、それを得たなら、それ以上の素晴らしいものなど考えつかない。それを達成すると大きな悲しみにでさえ影響されたりしない。ヨーガと呼ばれるものがドゥッカサンヨーガ(悲しみと関わること)からヴィヨーガ(離れる)することであることを知りますように。落胆しない考えを持って、明確な目的を持って、そのヨーガを追求しなさい」


「繋がる」ことがヨーガだと言われてきましたが、
この一節では、異なる視点で定義がされています。
「悲しみと関わることから離れること」がヨーガだと言われています。

考え(心)はいつも上がったり下がったり。
喜んだり、悲しんだり。
考えが上がったり下がったりすると
「私が上がったり下がったり」するのか?

違います。
「上がったり下がったりしている考え」を見ているのが「私」です。
考えに巻き込まれず、
考えを客観視しなさい、ということ。
考えは悲しみとくっつく癖がある。そういうもの。
悲しみとくっつくものから離れなさい。

そんな視点が持てるようになったら、落胆することなんてないんだよ。
そんな視点が持てるように練習しよう。それがヨーガ。


ヨーガスートラ1章2節
योगश्चित्तवृत्तिनिरोधः ॥२॥
yogaścittavṛttinirodhaḥ (2)
「ヨーガとは、チッタヴルッティ(考えの形)をニローダ(制御、落ち着く、止まる)することです」


こちらはヨーガスートラの一節です。
「ニローダ」という言葉は、とても和訳しにくいサンスクリット語です。
ですのが、近しい言葉を列挙します。
・上手に扱う
・手の内に収める
・制御する
・統括する
・支配する
・鎮める
・落ち着く
・止まる(「止める」ではなく)

考えを扱う鍛錬をしていけば、
つまりヨーガの鍛錬をすれば、
考えが自然と落ち着いて、鎮まってくる。

そんな感じです。
はい、肉体のことは全く言及されていません。
考えを扱うのがヨーガです。

考えを扱う練習の一つとしてアーサナ(座法)があり、
アーサナが現代では肉体を扱う鍛錬として広まっています。
目的と手段を混乱させてはいけません。
考えをニローダする手段の一つとしてアーサナがあるのです。
綺麗なポーズをとることも、柔らかい体を手に入れることも必須ではありません。
瞑想ができる程度の、つまりしばらく落ち着いて座っていられるだけの
肉体になれれば十分なのです。

ヨーガは伝統的にこんな説明もされます。
”アンタッカラナ シュッディ”
「アンタッカラナ(内側の道具:考え)をシュッディ(きれい)にすること」

ちなみに、瞑想はこんな説明となります。
”アンタッカラナ ナイシュチャルヤ”
「アンタッカラナ(内側の道具:考え)をナイシュチャルヤ(揺れ動かない)にすること」


バガヴァッドギーター4章1節&2節
श्रीभगवानुवाच ।
इमं विवस्वते योगं प्रोक्तवानहमव्ययम् ।
विवस्वान् मनवे प्राह मनुरिक्ष्वाकवेऽब्रवीत् ॥१॥
śrībhagavānuvāca
imaṃ vivasvate yogam - proktavānahamavyayam

vivasvān manave prāha - manurikṣvākave’bravīt (4-1)
एवं परम्पराप्राप्तमिमं राजर्षयो विदुः ।
स कालेनेह महता योगो नष्टः परन्तप ॥२॥
evaṃ paramparāprāptam - imaṃ rājarṣayo viduḥ
sa kāleneha mahatā - yogo naṣṭaḥ parantapa (4-2)
「シュリーバガヴァーン(クリシュナ)は言った。私は滅びることのないヨーガをヴィヴァスヴァーン(太陽神)に教えた。ヴィヴァスヴァーンはマヌに教え、マヌはイクシュヴァークに教えた。 
このように世代から世代へ伝えられ、リシ(聖者)である王がそれを知った。しかし、敵を焼き尽くす者(アルジュナ)よ。長い時間によってこのヨーガは衰退してしまったのだよ」


では最後に、ヨーガに関して、
クリシュナはバガヴァッドギーターの中で
こんな風にもアルジュナに言っています。

私は太陽神にヨーガを教えたよ、って。
どゆこと???

クリシュナはアルジュナにギーターを教え始めた瞬間から
「アルジュナの友達である人間クリシュナ」
としてではなく、
「ヴィシュヌ神のアヴァターラ(化身)クリシュナ」
として話し始めています。

私が書いているマハーバーラタの翻訳では
ギーター(教え)が始まった瞬間から先生っぽく口調を変えています。
18章の最後のセリフ(教えの後、下記)からは友達口調に戻しています。

「パールタ(アルジュナ)、集中して聞けたかい? 無知に起因する君の妄想は完全に破壊されたかな? ダナンジャヤ(アルジュナ)」

で、先ほどの4章1節&2節の話に戻ると、
クリシュナは宇宙の始まりの時に、自分が太陽神にヨーガを教えた、
と発言しています。

ここに「ヨーガはいつ始まったのか」の答えが示されています。
人間が作ったものではない。
宇宙の始まりの時から既にあった。
そういう解釈になるのです。

まあ、現代的なアーサナヨーガの始まりは?って聞かれれば
ハタヨーガプラディーピカーはできた頃、って答えるのが
順当になるわけですけどね。

いいなと思ったら応援しよう!