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折坂悠太「さびしさ」について#04

前回からずいぶん時間が経ってしまい、平成も最終日になってしまいました。なお、平成31年3月29日、折坂悠太のシングル「抱擁」が配信リリースされました。

折坂悠太 "平成" Release Tourとして東名阪でライブがあり、平成30年11月22日の名古屋Live & Lounge Vio公演に行きました。ツアーの初日でした。感想は割愛。
で、会場で配布されたチラシ類の中に「へいせい(うそ)しんぶん」なんてものが混じってたんです。

これがまた濃厚で、隅から隅まで面白いんですけど、思わず「うわっ!」と声に出して驚いてしまった部分がありました。これです。

「さびしさ」の歌詞なんですが、よく見ると違うんですよ、『平成』に収録されたバージョンとは。つまり旧バージョン。こうした形で紙に書いてあるということは、もしかしたらこのバージョンで演奏したこともあるのかもしれません。隣に「光」もありますが、こちらは最終版になっているようです。

この発見には興奮しました。大げさですが、歴史的資料になるとまで思いました。
「さびしさ」に限った話ではありませんが、歌詞というのは、作者の意図と解釈が一対一ではありません。言葉で説明できないからこそ歌にしている部分もありますし。だから唯一の解釈を追うのは諦めます。そのかわりに両バージョンを見比べて、別の言葉で言い換えたフレーズ、変更した表現から、受け止め方のヒントを探ってみたいと思います。

まず最初の部分。

<旧バージョン>

きみは行かないと すぐに行かないと
乱れ飛ぶ交通網を縫って

やがて人生は 砂浜の文字を
高波に読ませて去るだろう

幕は開くかね おれたちに
(注:「幕」ではなくて「暮」かも。「開」もあやしい。)


<収録バージョン>

頃合いをみては ここでまた会おう
乱れ飛ぶ交通網を縫って

やがておれたちは 砂浜の文字を
高波に読ませて言うだろう

「長くかかったね 覚えてる」

旧バージョンは、冒頭から「きみ」を名指しにして急かすんですよね。なんだかまだ現状を理解できていない「きみ」に、理解よりも先にとにかくすぐ行け、と言っている印象。それに対して収録バージョンは、自身と「きみ」は既に同じ位置に立ち、現状や思いを共有できているところから始まっている感じがします。だから「おれたち」という一人称に親しみと心強さが備わってくる。チープな言い方をするなら仲間感。もちろんリスナーである自分もそこに入ることができるのです。

もうひとつ。旧バージョンだと、今から乱れ飛ぶ交通網を縫って急いでも、幕が開くかどうかはせいぜい半々くらいの先行き不透明な表現。これが収録バージョンでは、自分たちの望む未来を思い浮かべているようです。ただ「長くかかったね 覚えてる」という言葉を発するのは、かなり遠い未来なんでしょうけど。

そう考えると、砂浜の文字の内容も、もしかしたら旧バージョンと収録バージョンで違うのかもしれません。砂浜の文字、なんて書いたのかな。

で、このあとのサビの部分は両バージョンとも同じ。
続く2番です。

<旧バージョン>

ここに来てほしい できるだけそばに
衣摺れの御堂をかけて

やがて人生は 新聞の隅で
飲み水をこぼされ去るだろう

夜へ急ぐかね おれたちも


<収録バージョン>

頃合いをみては ここでまた会おう
衣摺れの御堂を駆けて

やがておれたちは 新聞の隅で
目を凝らす誰かに言うだろう

「今にわかるだろう 恋してた」

旧バージョンを雑に要約すると、「水をこぼされてぐちゃぐちゃにされた新聞紙のような人生しか見えない だから夜の闇に逃げ込んで身を隠して生きていくんだ 一緒に来てくれ」という感じでしょうか。異論はあるでしょうけど自分はそう感じました。

対して収録バージョンは、ひとまず別れるわけです。(多少は)明るい未来に再会することを約束して。暗闇に身を寄せ合ってひっそり生きていく未来より、別れと再会を選んだのですよ。

なぜ別れる必要があるのか。それを考えると、やはり戦いに行くのではないかと思うのです。「手持ち無沙汰な心臓を連れて」、自分だけじゃなく、それぞれがそれぞれの戦場で戦い、場合によっては逃げ延び。そして頃合いをみて再会する。

旧バージョンの「夜」と同じものが1曲目の『坂道』にも描かれてます。

その角を曲がれば
細く暗い道に出る
いつかは会えるだろう
嘘みたいなそんな場所で

折坂悠太『坂道』より

「細く暗い道」「嘘みたいなそんな場所」ですよ。『坂道』ではそこでいつか会えるだろうと言っているわけです。でも『さびしさ』の収録バージョンでまた会おうと言っているのは風の吹くまちなんです。


旧バージョンの歌詞は、おそらく個人としての本音そのものなんでしょう。それが曲を作るうちに少し前向きな歌詞に変えた。と同時にリスナーと共有し得るものになった。これ自体にものすごく意味を感じます。

「今にわかるだろう 恋してた」のところ。唐突に「恋」という単語が飛び込んできて、その部分だけ彩りが生まれている気がします。恋してたことに気付いたら、再会しないなんてそれこそありえないですよね。命をかけて再会するはず。だから『さびしさ』は希望の歌だと思いたい。


さて、平成も残すところ40分ほどになってしまいました。後日、気にせずあと1件は書きたいと思います。

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