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折坂悠太「さびしさ」について#03

折坂悠太が2018年にリリースしたアルバム『平成』。そこに収録された「さびしさ」という曲について、思いを巡らせ、書き綴っていくシリーズです。

前回、まず「さびしさ」ってそもそも何なのかを探ってみましたが、その続きから。参照したReal Soundのインタビュー記事にはこんな記述もありました。

折坂:さらにもうひとつ、谷川俊太郎さんの「かなしみ」という詩があるんですが、その詩がすごく好きで。僕には子供の頃、家族が食卓でご飯を食べているのを見て、別に家族と仲が悪かったわけじゃないんですが、ふいに言われもない寂しさを感じた記憶があって。誰もが寂しさを抱えていて、自分の居場所を探している。誰かが仕事をすることや僕が歌を歌うことは、全てそうした営みなんじゃないかという気がして。「君と僕は一緒じゃん」と言ったところで、やっぱり決定的な違いはあって、決して“俺たち”という言葉では括れない。じゃあそんな時、「互いの共通点とは何だ?」と考えると、それはどうしようもない寂しさや自分の居場所を探す営みなんじゃないかと思うんです。そう捉えれば“俺たち”と括ってもいいんじゃないか? という気持ちに至った曲というか、個々の事情や違いを超えたかったというか、それを(風が)〈吹いてくれ〉という歌詞に集約したというか……すみません、うまく言えないんですけど。

谷川俊太郎の「かなしみ」について、この記事の中ではこれ以上触れていません。検索してみると簡単にヒットしますが、せっかくなので文庫本を買ってみました。古本ですが。

あの青い空の波の音が聞えるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

谷川俊太郎「かなしみ」より前半部分を引用

おお!思いがけず「とんでもないおとし物」というキーワードにたどり着きました。「さびしさ」の最後でこんな風に使われています。

とんでもないおとし物
おれは遠くに置いてきた
煙に覆われ 海に濡れ
冷たい頬に口つけて
さようなら さようなら
今日の日は さようなら

折坂悠太「さびしさ」より一部引用

「とんでもないおとし物」って、なんとなく「さびしさ」と結びつけやすくてイメージしやすいワードではあるんだけど、なんとなくしかわからないとも言えるわけで。そこで、谷川俊太郎の「かなしみ」から間接的にアクセスしてみます。

「あの青い空の波の音が聞えるあたり」というのは、無理やり単純化すると、彼方の水平線のあたり、ですよね。だから自分がまだそこを漂っていた頃、つまりかなり以前に落としたのであって、具体的にいつ頃なのかも特定できないでしょう。いつの間にか落としていて長い間気がつかなかった。

そして「何か」とか「らしい」が纏う曖昧さ。何かを落としたらしいが、それが何なのか自分でも分からない。だけど、跡には巨大な穴があいていて、つまり喪失感の大きさから、とんでもない物なんだということだけは推測できる。

この「かなしみ」の後半では、この「とんでもないおとし物」を求めるも、余計に悲しくなってしまいます。それは、見つからないことによるのか、そもそも何を落としたのか分からないことによるのか、いや、見つかったのに心が満たされないことによるのか。人生にはどれも心当たりがあると思いませんか。

一方、「さびしさ」においては、「おれは遠くに置いてきた」とあるように、もう探し求めるのはやめて見切りをつけたような態度です。そうして「煙に覆われ」「海に濡れ」「冷たい頬に口つけて」、どこへ行くの? まるでこの世界からいなくなってしまうかのよう。さようなら、さようなら、と。

こんな風に言ってしまうと悲しくなってしまいますが、でも、この「さびしさ」は諦めや絶望の歌なんかでは絶対にないはずです。歌に込められたエネルギーに少しでも触れたなら、このさようならが永遠の別れだなんて思えない。


「今日の日は さようなら」というフレーズを聞くと、金子詔一作詞・作曲の誰もが知っている「今日の日はさようなら」を思い浮かべてしまうのは、折坂悠太も当然踏まえてのことでしょう。それならば、

今日の日はさようなら
またあう日まで

と、(積極的とは言えないかもしれないながらも)再会を望む気持ちを汲み取りたいと思うのです。


ここまで書いてふと思いついた。

きっともう「とんでもないおとし物」にかまっている暇なんてないのではないのか。戦いに行くのではないのか。「生きていても意味がない」という言葉を投げられ、傷を負った人たちと寄り添うだけでなく、彼自身が語ったように「間違ってるぞ」と打ち負かしに行こうとする、彼自身そのものなのではないか。歌詞に結びつけるなら、「風」を自分で呼びに行こうとしているのだ。

それは決して無謀なものではなく、きっと折坂悠太は「今日の日はさようなら」を口ずさみながら、またあう日を現実にするのだろう。この「さびしさ」という曲がこんなにも広く響き渡っているのだから、「さびしさ」を抱えながら風を呼びに行こうとする人たちが他にもたくさんいるはず。


(なんかポエムっぽく、フィナーレっぽくなりましたが、続きます。)

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