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奈良時代の人たちの想いがつまった寺 奈良市 法相宗総本山薬師寺 私の百寺巡礼291
奈良の旅の最後を締めくくるは薬師寺だ。
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680年に天武天皇が藤原京で創建し、平城京遷都にともなって現在地に造営されました。
東塔は730年に建立されたものですが、7世紀末に藤原京で創建された時の建築様式を踏襲して建てられたと考えられています。各重に裳階(もこし)というひさしがつく独特の形式の三重塔で、日本でもっとも美しい塔として知られています。
また、寺の西方にある大池から望む、若草山や春日山を背景にした伽藍のながめは、奈良を代表する風景のひとつです。
東塔(奈良時代)・東院堂(鎌倉時代)の2棟が国宝建造物に指定されています。
奈良市ホームページより。
私が、「そうだ!奈良に行こう!」と思ったきっかけは、もちろん、真言豊山派総本山で朝の勤行を体験したいこともあったが、たまたまNHKで観た薬師寺の解体修理の番組に感動したからであった。
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NHKの番組の内容であるが。
矢沢永吉の大ファンであった大工見習が奈良で棟梁に出逢い、「薬師寺を建立した時の大工の気持ちになれ」と言われ、そこから自分の物語が始まるのである。
私は、工作だの手仕事だのは苦手だ。何せ、中学生時代にミシンで手を怪我するくらい不器用、今でも針で裾上げなど血が出る。
だから、大工さんの気持ちはわからない。
けれども、本来、薬師寺を建立しようとした天武天皇の気持ちは理解できる。当時は医療が発達していなかったので、薬師如来に切に懇願したいという思いがあったのだと思うのだ。
『日本書紀』天武天皇9年(680年)11月12日条には、天武天皇が後の持統天皇である鵜野讃良(うののさらら)皇后の病気平癒を祈願して薬師寺の建立を発願し、百僧を得度(出家)させたとある。薬師寺東塔の屋上にある相輪支柱に刻まれた「東塔檫銘」(とうとうさつめい、「さつ」は木偏に「察」)にも同趣旨の記述がある。しかし、天武天皇は寺の完成を見ずに朱鳥元年(686年)没し、伽藍整備は持統天皇、文武天皇の代に引き継がれた。
「東塔檫銘」には、「清原宮に天の下を統治した天皇(天武)の即位八年、庚辰の歳、中宮(後の持統天皇)の病気のため、この伽藍を創り始めたが、完成しないうちに崩御したので、その意志を継いで、太上天皇(持統)が完成したものである」旨が記されている。ここでいう「天皇即位八年、庚辰之歳」は、『書紀』の「天武天皇9年」と同じ年を指している。すなわち、『書紀』は天智天皇の没した翌年(壬申年、西暦672年にあたる)を天武天皇元年とするが、天武が正式に即位したのはその翌年(西暦673年にあたる)であり、「天皇即位八年」とは即位の年から数えて8年目という意味である。
NHKの放送を観た当時の私は、鼠径部の痛みに悩まされていた。病院に行き、10月25日に大腸内視鏡検査の予約をしたばかりであった。
だから、その検査の前には是非、薬師寺に行きたい!そう願っていたのだ。
奈良公園、奈良駅から少し離れていたのが良いかもしれない。思ったほど観光客もおらず、特に外国人観光客に悩まされることなく、静かに参拝出来た。近鉄の駅が目の前で、特急に乗ってしまえば京都駅まで楽に行けるのであるが、この場所は静かすぎる。
聖地であり、静地だ。
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もちろん、薬師如来に出逢うことが目的であった。なんと穏やかなのだろう。
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こちらは、女性スタッフが書いてくださった御朱印であるが、ここ数年間、色々な神社仏閣巡りをした中で、一番感動する文字であった。
受付スタッフに伺うと、ここの御朱印担当は皆、字が上手なのだという。
それだけ慣れているのであろう。
秩父札所巡りでも感じたが、手馴れている人は速いし、上手なのだ。
何しろ、秩父の場合は、あと5分後にバスがー、次は2時間半後ーー!みたいなこともあるので、都内や横浜辺りは遅いなーー、と思ってしまう。
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ここで、五木寛之先生の本から一部紹介したい。
薬師寺が創建されたのは七世紀の終わりである。天武元年(672年)に壬申の乱が起こり、天智天皇の弟の大海人皇子と皇子の大友皇子が皇位継承をめぐって争う。この時勝利した大海人皇子が即位して、天武天皇となった。
薬師寺は、その天武天皇が、皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈って天武9年(680年)に発願した寺だ。しかし、天武天皇は薬師寺が完成する前に亡くなっている。
一方、病気が治った皇后は、夫である天武天皇の跡を継いで持統天皇となり、薬師寺の建立にも力を尽くした。完成したのは文武2年(698年)だと言われている。未亡人は強し、と言っては失礼だが、夫の死後、元気を回復した妻が女帝となって様々な活躍をなさったわけだ。
最初に薬師寺が建立されていたのは藤原京だった。やがて、都が平城京に移ると、それに伴って現在地(奈良市西ノ京町)に移転した。
薬師寺は現在、興福寺と並んで法相宗の大本山である。放送宗はかつての南都六宗の一つで仏教を学問として研究するものだった。真宗や浄土宗や
真言宗などとは性格が違う。つまり、いわゆる「檀家」という形で一般大衆の生活に密着したものではない。
法相宗とは、仏教の中で非常に奥深くて複雑な「唯識」という思想を研究する学派である。薬師寺は、その唯識という学問を究める寺として知られていた。
ここではとても説明しきれないが、唯識とは文字通り、全ての事象は「識」、すなわち人間の心の働きから生じると言う思想だ。
戦後、薬師寺の伽藍を創建時のままによみがえらせよう、という気運が高まって来る。そして、昭和42年、前管長の高田好胤師が白鳳伽藍の再建を発願した。聞くところによれば、当初は、金堂だけでも復興できればいい、という切実な状況だったらしい。
何しろ、これだけの大伽藍を創建当時の姿に復元するには、膨大な資金が必要になる。しかし、薬師寺は学問の府として存在していて、普通の檀家というものを持っていない。それに、今は、国家権力や豪族や貴族をスポンサーにして寺が成り立っているような時代ではない。
では、いったいどうやって伽藍を整備していったのだろうか。
実は「写経勧進」という方法をとったのである。全国の大勢の人々がここに集まってきて「般若心経」写経する。自宅で書いたものを送ってもよい。書き写されたお経は薬師寺に納められる。その時、志としていくらかのお金を寄付するのだ。
寄付集めの新しいアイデア、というと軽薄に聞こえるかもしれない。しかし、写経することによって、自分の信仰、信心というものが形となってこの寺に残される。自分が寄付したお金で立派な堂宇が建つ。その喜びを得るために、予想をはるかに上回る人々が写経をしたのである。
薬師寺は古代と現代、過去と今、そして未来というものを、一度に体験させてくれるお寺である。
私たちはお寺の伽藍や仏像のように古いものをみる時、その古さを愛でる傾向がある。むしろ、その古さに価値を見出そうとする。その反面、それが造られた当時の華やかな面影や、ある種のけばけばしさを想像することは少ない。
けれども、東塔の約1300年前の姿というのは、おそらく再建直後の西塔のように、驚くほど色鮮やかで派手だったのだ。
そして、今の東塔はまぎれもなく、西塔の千数百年後の姿である。これほど華やかな西塔も、千年以上の時を経れば、色があせてクラシックな塔になっているはずだ。
「子供笑うな昨日の自分、老人笑うな明日の自分」というような言葉がある。
それと同じように、私は西塔の鮮やかな色を見ながら、その千年後の姿を想像した。また、東塔の古びた色を見ながら、その千年前の姿を思い浮かべた。この2つの塔を見比べていると、千数百年という悠久の時間が一挙に流れていくようで、不思議な気分になってくる。
「建造物は。建造された時の姿で見られる権利を有する」
薬師寺の東塔が建造された時の姿は、まさに今の西塔の姿だったろう。灰色の空の下で眺める薬師寺は、ひときわ魅力的だった。
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紫式部の紫の実が、こちらへどうぞ!と招いてくれるようであった。
式部の実 時越え招く 薬師寺よ
法相宗の大本山薬師寺
奈良県奈良市西ノ京町457
近鉄線・西ノ京駅より徒歩3分