念佛ひじり三国志~読書記録234~
直木賞作家で、浄土宗僧侶であった寺内大吉先生の長編歴史小説。
全5巻。
寺内大吉先生は、増上寺の法主でもあった。
副題「法然をめぐる人々」。法然上人鑽仰会の機関誌「月刊浄土」に昭和49年(1974)から連載。昭和57年(1982)から昭和58年(1983)にかけて、全5巻を刊行。昭和58年(1983)、第37回毎日出版文化賞受賞。
寺内大吉先生の文体は、簡潔で読みやすい。
法然は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。はじめ山門で天台宗の教学を学び、承安5年、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖と仰がれた。
法然は、浄土宗の開祖です。
長承2(1133)年、美作国(現在の岡山県)に押領使・漆間時国(うるまのときくに)の子として生まれました。
9歳の時に父を殺された法然は、その遺言によって出家し、比叡山に登ります。
そして、承安5(1175)年、43歳で「浄土宗」を開きました。
浄土宗は、"救いは念仏を称えることで得られる"という「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」の教えを中心としていました。
ただひたすらに念仏を称えることで、いつでも、どこでも、誰もが平等に阿弥陀仏に救われて、極楽浄土に往生することができる。
そうした「他力」の教えでもある浄土宗は、そのわかりやすさも手伝って、公家や武士だけでなく、経典を学び、寺院へ寄進や参詣する余裕のなかった多くの民衆にも希望を与え、日本全土に浸透しました。
一方で、浄土宗は、伝統的な仏教の強い反感も招きました。
建永2(1207)年、法然は75歳で、ついに、讃岐国に流罪となります。
赦免された法然は、建暦元(1211)年には京に帰りましたが、その翌年、80歳で生涯を閉じられました。(増上寺にあった説明より)
私は、ちと勘違いをしていたようで、法然上人は鎌倉時代中期の北条執権が安定した時代の人かと思っていた。
この本には、平家、源氏、北条家と、多くの面々が出て来る。
源義経の鹿ケ谷合戦など、法然上人の目線から描かれていた。
平安末期から鎌倉時代の武家が支配する時代を題材とした作品は色々あるが、浄土宗僧侶の作家だからこその作品だと思うのであった。
吾妻鏡は「北条色」の強い史書だったと言われる。将軍頼家の政治を非難する意図が込められているし、四年後に謀殺される彼の運命を正当化する伏線と考えられなくもない。(本書より)
平安時代末期、源平の争い、鎌倉時代初期の混乱。 そんな中で、比叡山から下山して、一般人にも救いの道を伝えだした法然は、ある種、異端だったのかもしれない。 で、犯罪人として、流罪となった。
日本でも外国でも昔は権力者の思うように罪人に出来たようだ。だからこそ、石川県の白山のような場所は、そのような罪人の逃げ場所としても存在していたのだろう。
頼朝と政子の娘、大姫が、木曽義高が亡くなった後、鬱病になったとか書かれている。 若き日の親鸞の比叡山での苦悩。 法然の元には実に多くの人が集まったようだ。
当時の比叡山、高野山の僧侶は、国家公務員官僚みたいなものだったのだろう。
尼将軍北条政子は、たびたび法然上人に手紙をだしていたようだ。
「念佛ひじり」という題名であるが、私が想い出したのは「高野ひじり」あだ。
もちろん、これとは全く違う意味合いなのだろう。
激動の時代、「南無阿弥陀仏」と念佛を唱えるしかなかった多くのひとたち。
修行僧、武士、一般の人。
法然上人の魅力を感じる小説であった。
法然が熱烈に説いたのは「念仏」として、その目に見えない大きな生命力を実感する事、この世の闇を照らす光に触れることだったのではないか。
(五木寛之先生の考え)
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