九州一の修行道場 福岡県久留米市 臨済宗妙心寺派江南山梅林寺 私の百寺巡礼260
JR久留米駅前にある臨済宗寺院。それが梅林寺だ。久留米駅前には「悠々梅」の樹がある。梅林寺から寄贈されたものなのだそうだ。
久留米の観光案内所に行くと、梅林寺=梅の名所とある。
太宰府天満宮では梅の木がわからずにいたのに、久留米駅に来て、沢山の梅の木に青い梅の実を見られるとは。ううむ。
JR久留米駅のすぐ裏手、筑後川べりの丘に堂々たる伽藍をみせているのが、臨済宗妙心寺派の梅林寺です。
九州の代表的な修行道場として知られる古刹で、また久留米藩主有馬氏菩提寺となった寺です。 寺の起源は、初代藩主豊氏が故地丹波福知山の瑞巌寺を移したもので、父則頼の分霊をここにうつし、その法号梅林院から寺号を改めたものです。 本堂正面には浮彫りの扉を持つ唐門が優れた威容を見せ、裏に廻ると始祖を初め歴代藩主の霊廟や墓塔が、静かな小松林の中に風格のあるたたずまいを見せています。
この寺宝は六百余点を数え、絹本著色釈迦三尊像(重要文化財)のほか、尾形光琳の富士山の図、長谷川等伯の屏風、狩野が描く襖絵なども収蔵されています。 隣接の外苑は、梅林の名にふさわしく梅花が風情を競い、市民の憩いの広場として知られています。(久留米駅観光案内より)
画像でわかるように、かなりの雨が降っている中であった。
私のデジカメ、雨に弱い・・・
あ、雨でデジカメの状態が・・・
久留米市の観光案内やWeb検索では「梅の名所」で出てくるのだが、ここは九州1の禅寺の修行道場なのだそうだ。
と、やはり、五木寛之先生の著書から引用したい。
梅林寺の境内に隣接した外苑には。500本余りの梅の木が植えられている。ただし、この梅林が寺名のもとになったのではないらしい。逆に、梅林寺という寺名にあわせて、昭和33年の開山350回忌に、梅の木を植樹したのだそうだ。
ところで、梅林寺を訪れる前に、この寺に関する資料を集めようとしたのだが、「九州一の修行道場」だと言われているにもかかわらず、資料がわずかしかない。意外にも、マスコミには殆ど取り上げられていないのである。
その理由は単純で、お寺の方が、これまでテレビや雑誌などから取材の依頼があっても、ほとんど断ってきたためらしい。
つまり、梅林寺は修行の寺であって観光寺ではないということで、原則としてマスコミの取材をいっさい受けないという姿勢を守ってきたのである。そのために。一般の人々の目に触れる事もなく、また世間の様々な雑音に悩まされることもなく、雲水たちは理想的な環境で、日々の修行に励むことができたというのだ。
結局、予備知識なしに訪れることになったのだが、これほど素晴らしいお寺が世間一般にほとんど知られずいたことに驚かずにはいられなかった。
情報社会と言われるようになってから久しい。今や、マスコミやインターネットによって、一見、世の中にはありとあらゆる情報が氾濫しているようだ。だが、それは玉石混淆で、本当に大事で必要な情報というのは、そう簡単には見つけられないのではあるまいか。やはり、実際に現場に足を運んでみて、自分の目で見たり聞いたりした情報にまさるものはない。梅林寺では、その事をつくづく感じさせられた。
梅林寺は正式名称を「江南山梅林禅寺」という。日本の臨済宗の開祖であり栄西にはじまり、江戸時代の名僧、白隠ともゆかりが深い臨済宗妙心寺派の専門道場だ。その山門のたたずまいに、ますます身が引き締まる思いがしてくる。
門をくぐると、一般の人は参詣できない修行道場なので人影はない。静まり返った境内に、ただしんしんと雪が降り続いている。俗世間とは切り離されたこの場所では、空気までが張り詰めているように感じられる。
山門をくぐってすぐに右に折れて、石を敷いた道を直進すると、庫裏の入口がある。声をかけると、すぐに1人の年若い雲水が姿を現した。
ふとその足元を見ると、まったくの素足である。もちろん室内にはストーブなどの暖房もなく、肌をさすような冷気は、屋外にいるのとほとんど変わらない。板敷きの床に立つと、まるで氷のように冷たかった。よくこの上を素足で歩けるものだ、と驚かずにはいられなかった。
梅林寺の住職の東海大玄老師にご挨拶をする。気難しいひとではないかと思っていたが、笑顔で迎えてくださったのでほっとした。
驚かされたのは、ご住職を筆頭に、雲水さんたちがみながっちりとした体格をしていて、顔や肌の血色もとてもいいことだった。健康そのものに見える。
実際に話を聞いてみると、彼らが日常的に口にしている食事というのは、私たちとは比較にならないほど粗食で、低カロリーなのだ。
普通の日は、朝はお粥と漬物程度らしい。昼は米飯だけはたくさん食べられるが、おかずは一汁一菜である。もちろん、肉や魚はいっさい食べていない。晩も、昼の残りを食べる程度だというのである。
方丈で、梅林寺の本尊の如意輪観音座像を拝した。どことなく、童子のような感じがする観音像である。
梅林寺が創建されたのは今から380年あまり前、元和7年(1621年)だと伝えられている。その前身は、九州の久留米ではなく、丹波の福知山にあった瑞巌寺という寺だった。
丹波の福知山の藩主だった有馬豊氏が、久留米藩主としてこの地に移ってきおたのが元和6年である。福知山では八万石だったが、久留米では三倍近い二十一万石に加増されているので。栄転だといっていいだろう。
その際、有馬豊氏は瑞巌寺もこの久留米の地に移し、大龍寺と称したという。開山は、丹波福知山の瑞巌寺を創建した兎門玄級である。
その大龍寺が梅林寺と改称された。そして、久留米藩は有馬豊氏以来十一代、約250年続き、梅林寺は藩主の菩提寺であると同時に、臨済宗の修行道場として栄えてきたのだった。
その後、明治維新、廃仏毀釈という激しい変化の中で、梅林寺も有馬家という大きな後ろ盾を失って、一時は荒廃したこともあるらしい。しかし、明治初期から大正期にかけて伽藍が復興され、現在は檀信徒に支えられて、こうしてこの地に続いている。
雲水たちは、夏は朝三時、冬は朝四時の起床である。それから朝のお勤めがあり、参禅、庭掃除、作務、夜の座禅と言う具合に1日のスケジュールがびっしり詰まっている。自分のための勉強をするのは夜の時間帯しかない。そのため、睡眠時間は常に3、4時間だともいう。
戦後60年、私たちはこの日本の繁栄と共に、非常に豊かな社会の中で生活を享受してきた。いわば飽食の時代を過ごしてきたのである。今の世相を見ていると、そのつけが、いっぺんに私たちの上に降りかかっているような気がする。
そういう時代に、1つのお寺が長い歴史の中で磨き上げてきた大事な精神をここでしっかりと守り続けている。この九州の一角にいま梅林寺があるということが、ありがたく尊く感じられてならなかった。
一粒の米のありがたさというものを、私たちは殆ど考えることがない。しかし、こういう形で、人々がひとつかみの米を雲水たちに喜捨している。それを受けた雲水たちは、そうした沢山の人々の志を大切に扱い、また修行に励む。
仏教という世界の最初の素朴な形がここに生きている、という気がした。
この寺の凛としたたたずまいこそ、今の日本という国に、或いは日本人の心に一番欠けているものかもしれない、と思わずにはいられなかった。
(五木寛之先生の百寺巡礼より)
ここは、そう、御朱印廻り、御朱印ガールが参拝する寺ではないのだ。
厳しい修行の寺。綺麗に手入れされたお堂、庭を観ながら、仏教の厳しさを想うのであった。
男梅雨 雲水手入れし 梅林寺
臨済宗妙心寺派江南山梅林寺
福岡県久留米市京町209
JR久留米駅より徒歩5分
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