江戸時代以前の深い歴史を知る 台東区 聖観音宗金龍山浅草寺私の百寺巡礼149
下町と言ったら浅草寺。そんなイメージがずっとある。
今回、浅草寺に参拝し、他の文献なども読むことで、又勉強になったなと感じた。人生は勉強や!
浅草寺と言ったら雷門。参道になるのだが、この参道があれ?と思ったのは私の気のせいか?
招き猫の店に入ったのだが、店員さんが全員外国人で、接客もなかったようで、店員さん同士が中国語だか韓国語だかで話していたのだ。
あ、ここムリ・・・と買わずに出る。
そして、猫の可愛い煎餅屋さんにと。
年齢の高い男性が2人接客に追われていたのだが、客の殆どがアジアの他の国の方で、ああ、接客が大変そうだから止めておこう。と、ここも買わずに出た。
人力車を利用するのも外国人観光客。肉体労働者ではなく、幾つかの外国語(英語に中国語にハングルに)を喋る人力車の人たち。観光案内もするので、知識も仕入れる、と。これって、まさに文武両道なんやろね。
というか、京都、浅草、鎌倉と。殆どが外国人観光客やないかーい!
成田空港で、観光税をもっと取ってもいいと岸田翔太郎首相に提言したい。
浅草寺境内は広い!とにかく、周りの方を写さないように気を使いながら移動する。
浅草参道、花屋敷辺りの若い日本人、外国人観光客に辟易としていた私であったが、タイやミャンマー辺りから来られたのだろうと思われる方たちを何人も見かけた。
韓国人、アメリカ、ヨーロッパの観光客とは全く違うのだ。
寧ろ、観光気分、御朱印ガール❤みたいな気分でいる日本人よりも、敬虔な気持ちで本尊や境内にある像を拝んでいたのだ。
その姿勢は神々しい気がした。
浅草、下町と言うと江戸時代というイメージであったのだが、浅草寺はかなり旧い寺なのだそうだ。
浅草寺は、1400年近い歴史をもつ観音霊場である。寺伝によると、ご本尊がお姿を現されたのは、飛鳥時代、推古天皇36年(628)3月18日の早朝であった。
宮戸川(今の隅田川)のほとりに住む檜前浜成・竹成兄弟が漁をしている最中、投網の中に一躰の像を発見した。仏像のことをよく知らなかった浜成・竹成兄弟は、像を水中に投じ、場所を変えて何度か網を打った。しかしそのたびに尊像が網にかかるばかりで、魚は捕れなかったので兄弟はこの尊像を持ち帰った。
土師中知(名前には諸説あり)という土地の長に見てもらうと、聖観世音菩薩の尊像であるとわかった。そして翌19日の朝、里の童子たちが草でつくったお堂に、この観音さまをお祀りした。「御名を称えて一心に願い事をすれば、必ず功徳をお授けくださる仏さまである」と、浜成・竹成兄弟や近隣の人びとに語り聞かせた中知は、やがて私宅を寺に改め、観音さまの礼拝供養に生涯を捧げた。
浅草寺に伝わる縁起には、観音さま示現の日、一夜にして辺りに千株ほどの松が生じ、3日を過ぎると天から金の鱗をもつ龍が松林の中にくだったと記されている。この瑞祥が、後につけられた山号「金龍山」の由来となった。また現在、浅草寺寺舞として奉演されている「金龍の舞」も、これに因む。
やがて大化元年(645)、勝海上人という僧が当山に立ち寄り、観音堂を修造した。ある夜、上人の夢に観音さまが現れ、「みだりに拝するなかれ」と告げられた。以来今日まで、ご本尊を厨子(御宮殿)深く秘仏として奉安している。
平安初期の天安元年(857)、比叡山第3世天台座主慈覚大師円仁さまが来山した。秘仏のご本尊の前に奉安されている御前立は、この時浅草寺の中興開山と仰がれる慈覚大師が謹刻されたと伝わる。
その後、浅草の地は、宗教的な聖地として次第に発展していく。平安中期の天慶5年(942)、浅草寺に参籠した平公雅が、武蔵(現在の東京都と埼玉県のほぼ全域に神奈川県の東部を含めた地域)国守への補任を祈願した。この願いがかない、公雅は報謝の印に大規模な七堂伽藍を建てた。このため浅草寺は近郡に比類なき霊場となり、一層の信仰を集めた。
あれ?慈覚大師円仁と言ったら、平泉の中尊寺、毛越寺、松島の瑞巌寺、山形の立石寺なども開山されているぞ。慈覚大師円仁のカリスマ性をここにも見た。
源頼朝、足利尊氏らも深く関わりがある。江戸が整備されるよりも悠かに昔からあったのか。
増上寺、寛永寺が徳川家康以降の徳川幕府によって建立されていった歴史と比べると興味深い。
ここからは五木寛之先生の本を紹介したい。
浅草寺の開山は。勝海上人とされている。大化元年(645年)、この勝海上人が隅田川から授かった観音像を未来永劫絶対秘仏の本尊としたという。
一方、本尊を発見した三人も浅草寺にとっては大切な存在である。そこで、この3人を三社権現として祀ることになった。これが浅草神社の起こりであり、毎年5月の3日間、浅草っ子を中心に大いににぎわう三社祭はこの神社の例祭だ。
仏や菩薩が衆生を救うために人間や物となって「権」(かり)に姿を「現」すということ、それが「権現」である。つまり、土師中知、檜前浜成、竹成兄弟は、仏の生まれ変わりだというわけだ。土師中知は阿弥陀如来、浜成は観音菩薩、竹成は勢至菩薩の生まれ変わりとして祀られている。
この三尊を主神とする浅草神社は浅草寺の総鎮守であり。地元の人々からは「三社さま」と呼ばれ、親しまれてきた。本堂にお参りしたあとでこの神社に足を向け、柏手を打つ人も少なくない。浅草寺と浅草神社は、もともとは一体となってこのあたりに祀られていたに違いない。
ところが、明治元年(1868年)mp神仏分離令によって、寺と神社は分かたれてしまった。これをきっかけに、全国的に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる。つい百数十年前のことだ。
しかし、今も浅草神社の鳥居の奥の社殿と浅草寺の本殿とは、ほど近くに並び立っている。ここには、古くからの神仏習合の形がはっきりとみてとれるのである。
寺に鎮守があるということを、私はこの百寺巡礼の中で強く意識するようになった。本来、日本人の信仰と言うのは、寺と社が一体となったものだったのだろう。
つまり、仏教の中に神道があり、神道の中に仏教がある。互いに重なっている神仏習合の中にこそ、日本人の信仰があったようだ。
松尾芭蕉に、「花の雲 鐘は上野か 浅草か」という句がある。
春、桜の花が満開になり、青空に映えて白い雲の様である。その雲を眺めていると、どこからか鐘が聞こえた。上野の寛永寺だろうか、それとも浅草の浅草寺だろうか、といった意味だろう。
もし、その鐘の音が浅草寺のものだとすれば、仲見世通りの右手、弁天山にある鐘楼の鐘だということになる。この鐘は、五代将軍徳川綱吉が作らせたと言われる。
庶民の信仰を集める浅草寺だが、実は、徳川将軍家の祈願所としての顔も持つ。家康は、増上寺を菩提寺に、浅草寺を祈願所に決めた。生きている間は浅草寺の聖観世音にすがって現世利益を願い、死後の往生は増上寺の阿弥陀如来に約束してもらおうという考えだろうか。
人は誰しも悪路を進むとき、もういやだと歩くのをやめて座り込みたくなったり、何もかも放り出して死にたくなったりする。そういう人間に対して、その道を歩き続ける力を与えてくれるもの、それが信心ではないかと思う。
ご利益で道のりが楽になる事はない。むしろ信仰をもったほうが、険しい道のりの厳しさをひしひしと感じることになるかもしれない。でも、それを投げ出さずに、生きていこうとする勇気や頼もしさを与えてくれるのが、信じる心、あるいは宗教というものではないだろうか。
太古の昔は砂州であった浅草の地に、観音像が祀られてから1400年余り。人々は泣き、苦しみ、もがき、安心し、そして浄土へと旅立っていった。それらの人生を変わらずに支えてきたものが、暗く沈み込んだ気持ちを照らす一条の光、すなわち観世音菩薩への信仰だったのだろう。
浅草という街には、観世音菩薩の希望の光を光として際立たせる闇がある。それは、長い歳月の間、多くの人の心に巣くった闇でもある。この浅草に、千数百年の歴史をもつ寺が存在し続ける運命を、その不思議を、私は思わずにはいられなかった。
聖観音宗金龍山浅草寺
東京都台東区浅草2丁目3−1
東武スカイツリーライン:浅草駅より徒歩5分
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つくばエクスプレス:浅草駅より徒歩5分
都営地下鉄浅草線:浅草駅A4出口より徒歩5分