雑草の定義
日ごとに寒さが遠のき、庭仕事が楽しい季節となった。
自宅でも仕事先でも植物の世話をするのだが、先日、とんでもない失態をしでかしてしまった。
それは、まだツボミも付けていないヒナゲシを雑草だと思い、抜いてしまったのだ。
そして、全ては抜き取っていなかったようで、咲いた花を見られた事が本当に嬉しい。
しかし、ここで考える。
そもそも、雑草とはなんやねん?
昭和天皇は、「雑草と言う草はない」と言われた。全ての植物に名前があるのだ。
私は、小さい頃、畑や裏山に行き、ウサギの食べる草を採ってくるという役目を与えられていた。
祖父や父からは、毒のある植物を強く教えられ、絶対に気を付けるように言われた。
特に、スズランを代表するような鐘のような形の花はダメと。
ツルニチニチソウはトリカブト並みの毒があるのだ。
私は思った。何を基準に「良い植物」「悪い植物」があるのか?
野生動物、昆虫は、自分の本能で食べてはいけない植物を知っているだろう。
現に、カカオを食べる、コーヒーにして飲むのは人間くらいである。
家畜が食べると怖い、畑にあると売り物になる作物の邪魔。花屋では売り物に出来ないブサイクな花。
これは人間の都合ではないだろうか?
つまり、人を基準に考えた結果が、「雑草」と言う名前なのだ。
昔の日本人は、植物に皆名前をつけた。
戦時中の結核病棟では、患者を名前ではなく、番号で呼んだという。
マタイ福音書にあるように、役に立たない物を雑草として刈り取り、燃やす。それが今の地上の教会だ。
以前、「もう来るな」と言われた教会では、私が懸命に植えたスミレのような小さな花が全て抜かれ、梅村司教が大好きだというバラの花に代わっていた。
「好きな花の好みが違うから」
って、そもそもなんやねん?
五木寛之先生の言葉ではないが、「百人百様」。
みんな、違う花が好きでもいいのではないか?
本当に役に立たない物なのか?
私自身、自分を雑草だと思っている。
今まで、沢山の会社をクビになっている。役に立たないから。
それでも、昭和天皇のこの言葉で、今日も生きていける気がするのだった。
「どんな植物でも皆名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる。人間の一方的な考え方で、これを雑草と決め付けてしまうのはいけない。注意するように」
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