悔しい思い
実家に菩提寺から送られてくる会報がある。
「光明」というものだが、なかなか読み応えがある。
特に、江戸川区にある寺院の名取芳彦師匠のコラムは心に響き、今まで知らなかった方を知った喜びに感謝するものであった。
その中で、1つ、最近の私には深いものがあった。
悔しい思いをしないために
他人に辱められたり、自分の無力さを思い知らされて腹を立てたりして、いまいましく思うことを「悔しい」と言います。
相撲の素人が得意な人から「この土俵で相撲をしよう」と手招きされたとします。この言葉を聞いて。よしやってみようとあがるのは、よほど好奇心が旺盛か、無鉄砲な人でしょう。
相手は自分が得意な相撲で勝負しようとしているのですから、所詮素人が勝てるはずありません。相手の得意な土俵で勝負すれば、負けて悔しい思いをするのは目に見えています。
その時に悔しい思いをしないためには、「いや、わたしはそんな無茶はしたくありませんから、遠慮しておきます」と土俵にはあがらず、その場から撤退することでしょう。
私たちが侮辱されたり、バカにされて悔しい思いをするのは、相手が得意(優位)な分野からこちらを誘い、それにまんまとのってしまったようなものです。
「なんだ、こんなことも出来ないのか」と人をバカにするような人は、「こんなこと」や「そんなこと」が出来る人なのです。出来る人が出来ない人を責めるのは、それほど難しいことではありません。
得意と言う土俵で生きている人は、「どうしてそんな損なことをするんだ」とバカにします。こちらも損得で生きているなら「たしかにそうですね」と、その言葉を甘んじて受けざるを得ないでしょう。つまり、悔しい思いをするのです。
しかし、得するため(損しないため)なら、人を裏ぎり、ずるするのも厭わない人になりたくないと思い「損得抜きで人のため」という土俵にいる人は、損得という土俵に興味はありません。「損得という土俵にあがってこい」と言われても、誘いにのりませんから、悔しい思いをしなくてもすむのです。
悔しさをバネにして力をつけるために努力し、相手の土俵にあがり、勝つ人もいるでしょう。自分が相手と同じ土俵にいるなら、それも必要かもしれません。
しかし、私たちが日常で受ける侮辱や屈辱は、自分と違った土俵にいる人から向けられるものが少なくありません。
「こんな事も知らないの?これって有名だよ」と言われたら、「そんな事を知っておく義務はないし、そもそも私が知らないのだから、有名ではないのです」と返せばいいのです。
「自分にもっと正直になりなよ」と言われたら「自分に正直なだけで、他人に不誠実な人がいるものですが、私はそんな人にはなりたくないのです」と、にっこり笑って。放っておけばいいのです。
逆に、相手をバカにしたくなったら、「私は自分の土俵に相手を無理矢理あがらせようとしているではないか」と考えてみると、相手から反感を買うことも少なくなるかもしれません。
最近、私は、散々自分のやりたい放題、社会に迷惑をかけているのに、裁かれず、社会から仕事を与えられている母子に対して、悔しい思いをしていた。
行っていることはおかしいのに、自分と反対意見の人間を開示請求だ、裁判だ、と脅しまわり。会社に来たメールもネットにあげるし。
自分がバカで惨めになったのだが、そのメンバーとやり合った時、思いきり馬鹿にされ、悔しい思いしかなかった。相手は集団、私は1人。味方はいなかった。
今、名取師のコラムをじっくりと読み、「無理にあの人らと同じ場所に行くことはないのだな」と、理解した。現在は、ブロックして、観に行くこともない。
名取芳彦師のコラムであるが、是非お勧めしたいのは、少年革命家を名乗る少年の父親、中村さんだ。
ここに写したのと全く違うことばかり日々呟いている。
実のない人生とは、まさに中村さんのような生き方なのだろう。
「お前ら、あがってこいや」
と言ったところで、ホリエモンやシバターらには、既に相手にもされず。
他人をバカにするのが趣味なような人とはあえて戦わず、自分の好きなように生きていくのがよい。
こう思うのだった。
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