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深い味わいの古刹 奈良市 秋篠寺 私の百寺巡礼286

秋篠寺(あきしのでら)は、奈良県奈良市秋篠町にある単立の寺院。山号はなし。本尊は薬師如来。伎芸天像と国宝の本堂で知られる。
宝亀7年(776年)、皇后の井上内親王と、その子で皇太子の他戸親王を廃して死に至らしめた光仁天皇の勅願により善珠が創建したともいうが、これは鎌倉時代の文書に見えるものである。文献上の初見は『続日本紀』に宝亀11年(780年)、光仁天皇が秋篠寺に食封(じきふ)一百戸を施入したとあるもので、この年以前の創建であることがわかる(食封とは、一定地域の戸(世帯)から上がる租庸調を給与や寺院の維持費等として支給するもの)。創建時は法相宗の寺院であった。『日本後紀』によれば、延暦25年(806年)に崩御した桓武天皇の五七忌が秋篠寺で行われたことが見え、皇室とも関連の深い寺院であったことがわかる。
秋篠寺は平安時代になると真言宗寺院となり、平安後期からは寺領を増大させて南に位置する西大寺との間にたびたび寺領をめぐる争論があったことが、西大寺側に残る史料からわかる。
保延元年(1135年)には火災により講堂以外の主要伽藍を焼失した。現存する本堂(国宝)は、旧講堂の位置に建つが創建当時のものではなく、鎌倉時代の再建である。
明治時代以降は浄土宗に宗旨を変更していたが、現在は単立寺院となっている。


萩の花が咲き乱れる庭であった。とにかく、ここのお寺。山門から入場券を求める入口まで長いのだ。
多分、お寺が出来てからの数他の出来事ゆえに、奈良時代のお堂は無くなり、こんなにも広すぎる!と思えるほどの空間なのではないかと思うのであった。
そして、俗人である私の悪い癖で、これだけ有名なお寺で拝観料も取るんだからと御朱印があるか聴いてしまったのだ。ああ、仏を求めていない餓鬼畜生なり。
今はされていない、とのこと。
その時には、そうなのかと納得したのだが、後日、ネットで調べると6月6日の1日のみ御朱印があるのだとか。
もう、言ってよーーー。と思いながらも、それだけの為に並ぶのも嫌なので御朱印はどうでもいい。

庭の苔むした様が魅力の寺だ。「苔寺」とも呼ばれている。
そんな苔寺で、雨が降りだしそうな中、苔に滑ってこけた私は恥ずかしい。

敷地自体は広いのだが、お堂はえ?これだけ?と思ってしまった。申し訳ない。。。。
そう、ここは、国宝、重要文化財となっている仏像と本堂に入り、対面する場なのである。萩の花に誘われ、25体の仏像を観る。そんなひと時であった。


五木寛之先生の本から一部紹介したい。

「あきしの」ー。そのゆかしい言葉の響きに魅せられて、初めて秋篠寺を訪ねた。
境内の雑木林の緑の深さ。木々の下に一面に敷き詰められたような艶やかな苔。
これが、話に聞いていた秋篠寺の「苔庭」である。その美しさに息を飲む思いがした。
先ほどからの雨に濡れて水分をたっぷり吸っているだけに、苔の緑が生き生きとしていて、まるで「苔の海」だ。
平城宮跡の北西、奈良市秋篠町。その市街地の一角に秋篠寺はある。
実際に訪れるまでは、ぐるっと歩いても十分程度の小さな寺だとか、すぐ隣には競輪場があって騒々しいとか、むしろマイナスのイメージを抱かせるような情報が多かった。


しかし、秋篠寺の門の中へ一歩入れば、そこは深い雑木林。隣接して競輪場があることなどすっかり忘れてしまった。
街中に、これほどの豊かな自然と静かな場所が残っているのは奇跡のようだ。あたかも隠された「宝石」のように。こうした空間はもはや、神社仏閣の周辺だけしにか存在しないのかもしれない。

普通、苔と言うともっと暗い印象がある。「苔むす屍」というように、黒みがかった緑色を想像してしまう。しかし、秋篠寺の苔は非常に明るい緑だった。やや黄色がかった若々しい新緑の緑である。
仏とはなんだろう、と考えた時、それはやはり光ではなかろうか。闇を照らす光。あまねく空間を照らす光。昔から、色々な人が仏について考えた。そして、仏は光だと感じたのであろう。私は秋篠寺で過ごしたこの一瞬に、光を感じた。
秋篠寺を訪れた時の最初の印象は、なんて優しい感じなのだろう、繊細なのだろう、というものであった。しかし、次第に言葉に表現できないようなミステリアスな雰囲気を感じるようになった。ただ美しくて繊細で興味深い歴史をもつ寺、というだけではない。
ここの苔の美しさも、極楽浄土を思わせるようだった。しかし、ひときわ私の気持ちを惹きつけたのは。やはり伎芸天だった。言葉を超えて、心と心が響き合うようなものを感じたのである。

この出会いを素直に喜びたい。そんな気持ちで、苔の光寺を後にした。

萩の花 向かう先には 伎芸天

秋篠寺
奈良県奈良市秋篠町757
近鉄・大和西大寺駅より徒歩15分


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