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深い河 遠藤周作~読書記録248~

1993年に発表されたカトリック作家・遠藤周作の小説。

出版社の紹介より
喪失感をそれぞれに抱え、インドへの旅をともにする人々。生と死、善と悪が共存する混沌とした世界で、生きるもののすべてを受け止め包み込み、母なる河ガンジスは流れていく。本当の愛。それぞれの信じる神。生きること、生かされていることの意味。読む者の心に深く問いかける、第35回毎日芸術賞受賞作。
人は皆、それぞれの辛さを背負い、生きる。
そのすべてを包み込み、母なる河は流れていく。
死生観、宗教観に問いかける名著
本当の愛、生きることの意味を問う、遠藤文学の集大成!


舞台はインド。
と言っても、登場人物は日本人で、インド旅行ツアーがメインで登場人物は日本人である。
磯部、沼田、木口という男性は既に仕事をリタイアした世代である。
主人公とも言えるのが、成瀬美津子だ。若く美しく奔放だが、自分では気づかない求道の精神が見える。
その美津子が上智大学(とは書かれていないが、そこしかないだろうという書き方だ)時代に出逢ったのが、大津である。
キリスト教嫌いの美津子に説明すべく、イエスの事を「玉ねぎ」と表現している。

「神は存在するというより、働きです。玉ねぎは愛の働く塊りなんです」
(本書より)

何度も何度も、イザヤ書53章3節の言葉が引用されている。

彼は醜く、威厳もない。みじめで、みすぼらしい。
人は彼を蔑み、見すてた。
忌み嫌われる者のように、彼は手で顔を覆って人々に侮られる。
まことに彼は我々の病を負い我々の悲しみを担った。
『旧約聖書』「イザヤ書」53章2-4節(深い河より)

現在の日本の教会で使われている新共同訳聖書では違う訳なので、遠藤周作は昔のカトリックの聖書を用いたのではないだろうか。

大津は、上智大学哲学科を卒業後、神父になるべくフランスに行くのだが、キリスト教とは、ヨーロッパの人が言うようなものかと違和感を覚え、異端と見做され、フランスの修道院から排除されてしまう。インドの修道院に行ったものの、そこでも排除され、ヒンズー教徒の人たちに受け入れられ、思いもよらない最期を迎える。それで物語は終わっている。

「ヨーロッパの考え方はあまりに明晰で論理的だと、感服せざるをえませんでしたが、そのあまりに明晰で、あまりに論理的なために、東洋人のぼくには何かが見落とされているように思え、ついていけなかったのです。彼らの明晰な論理や割り切り方はぼくには苦痛でさえありました。
それは僕が彼等の偉大な構築力を理解できるだけ頭がよくなく、不勉強のためですけれど、それ以上に僕の中の日本人的な感覚が。ヨーロッパの基督教に違和感を感じさせてしまったのです。結局はヨーロッパ人たちの信仰は意識的で理性的で、そして理性で割り切れぬものを、この人たちは受けつけません。
神学校の中で僕が、一番批判を受けたのは、僕の無意識に潜んでいる、彼らから見て汎神論的な感覚でした。日本人として僕は自然の大きな命を軽視することには耐えられません。いくら明晰で論理的でも、このヨーロッパの基督教の中には生命の中に序列があります。「よく見れば なずな花咲く 垣根かな」は、ここの人たちには遂に理解できないでしょう」
(本書より)

私自身がキリスト教会に於いて、大津のような体験を繰り返してきたからか。大津に親近感を覚えるのだ。
日本人は、ヨーロッパの人のように、白黒ハッキリとは出来ない。イエス自身ではなく、教会、或いはバチカンに対する信仰心ではないだろうか。
「聖なる普遍の教会を信ず」と教会では唱えるが、教会の権威を感じてしまうのだ。

大津の不器用な生きざまは、まさに、イエスキリストそのものではないか?
日本人には、西洋風のキリスト教は・・・というのは、遠藤周作の考えなのだろうか?
実は、私の知り合いのキリスト教信者は、そんな事を言わない。洗礼を受けていないと救われない、と、赤ちゃんや死んだ者にも洗礼を授けるような人たちなのだ。
キリスト教信者だけが救われるのではない。イスラム教、仏教、ヒンズー教、その他、多くの者たちが同じ。これが遠藤周作の想うものであったとしたら、私は遠藤周作を尊敬する。

「でも結局は、玉ねぎがヨーロッパの基督教だけでなくヒンズー教の中にも、仏教の中にも生きておられると思うからです。」(本書より)
インドでヒンズー教徒の中で働く大津は、こんな事を美津子に言うのであった。

これこそが、この本で言いたかったことかもしれない。
日本の仏教は、本来のインドのそれとは違う、と言う話をよく聴く。
だが、それは日本人に合うように、日本の風土に合うように変化したのではないかと私は考えている。
蒸し暑く、四季のないインドのそれをそのまま持ってきたとしても、食べ物も違う。

「私はヒンズー教徒として本能的に全ての宗教が多かれ少なかれ真実であると思う。全ての宗教は同じ神から発している。しかしどの宗教も不完全である。なぜならそれらは不完全な人間によって我々に伝えられてきたからだ。」
作品に引用されるガンジーのこの言葉が、作品のテーマかもしれない。

宗教学者の島薗進先生は、この作品を「すべての祈りを包む河」と称している。

多くの人々の祈りがガンジス河に包みこまれるように感じられるからである。作者は神を、様々な苦難をすべて包み込み、癒すガンジス河のような大いなるものとして思い描いているかのようだ。キリスト教徒の作家がキリスト教の信仰に従いながら、他の宗教や信徒でない人々の祈りをも包み込むビジョンを示しているのである。諸宗教や多様な世界観が並び立ち、ときに激しい対立が起こり、和解が困難に思われる現代社会だが、作者のこのビジョンはそうした対立や困難を超えて行く道を指し示しているように感じられる。(本書より)

遠藤周作と親しい、後に神父となった人物が大津のモデルであるとも言われている。

井上洋治神父は、カトリック司祭でありながら法然上人に惹かれた人だ。
祈りも、カトリックの教義そのものではなく、「南無アッパ」という独特なものだ。

大津のモデルが井上洋治神父ということなので、ヒロインである成瀬美津子の求道精神は、遠藤周作そのものかもしれないと思ったりした。

数年前、私は、神奈川県中の若い日本人司祭たちから排除された時に、
「井上洋治神父なら私を排除しないのにな」
と、礼拝堂の入り口(礼拝堂に入るなとも言われたのだ)で涙を流したことがあった。




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