この犬の如き
ちょうど今から1年前。7/10は、私にある決意をさせた日であった。
大学生の時にキリスト教信者になったものの、己の弱さ、罪故に、多くの教会から追放されてしまった。
もう受け入れてくれる所はないだろうと思いながらも、最後の望みと、京急線の逗子・葉山駅前にある教会へと足を運んだ。
やはり、自分の居場所はここではないとわかった。
そんな事よりも、私は「マリア処女説」を信じられなくなったのだ。イエスが死んでからの体の復活をも疑うようになっていた。だって、実際に復活のイエスと出会った人は聖書では、信じる女たちと熱心な弟子たちだけだ。公平な目で見るローマ帝国の人間は見ていないのだ。
その直後、行ったのが逗子・葉山駅前にある高野山真言宗・延命寺だ。
この小さき犬をも弘法大師様は憐れんで同行してくださる。
この犬は私だ。
キリスト教では、人間だけが偉いとする思想がある。神にかたどって作られ、地球を治めるように作られたのだと、創世記の初めに書かれている。
だからなのか。私の知る神父やら牧師やら信者やらは、猫嫌いが多い。
当時の私は、御朱印帳というものを持っていなかった。
又、お寺の人に声を掛けるという事も怖かった。
イヤ、お寺だけではない。他人と会話をすることが怖いから、同僚もおらず、誰とも口を利かず黙々と独りで仕事をしたら済む仕事に就いていた。
それは教会で散々、
「罪深い」
「役立たず」
「早く死んだら?」
と言われて来たからだと思う。
バザーやクリスマスの準備の時に、のろまの私は確かに邪魔であったし、要らない物(者ではない)だったのだ。
そう、教会とは、最初に「罪の意識」を持たせるのだ。自分はこんなに罪深い。何もしていないのに、意識していないのに罪を犯している。神にすがるしかない。
カトリックの決められた唱え文句に
「意識せずに犯している罪をお赦しください」
がある。
まあ、他人に不快な思いをさせているのは事実にしても、精神的に参ってしまうよね。
逗子の真言宗寺院でも、他人に声を掛けることは怖いのと、当時は「コロナを移さないでえええ」「マスクをして」とか言われるのも飽きていたので、御朱印は頂くことなく帰宅した。
今思うに、PCR検査で陰性になっている人間に対して、
「コロナ感染するかもしれないから、個人の御朱印帳は暫くお断りです。書き置きです」
は、失礼過ぎるんじゃあないか!と思っている。
まあ、それは一般人が悪いのではなく、そんな風に煽った人らが悪いのだが。
その4日後に、御朱印帳とやらを購入した。
初めての御朱印であった。
それから、何かが変わっていった。
そう、1年前の日曜日。それは、最期の教会へ行った日となったのだ。
そして、1年後の7月9日。私は同じ場所に行った。
この地蔵たちが愛おしく感じられる。
そして、今回はチャイムをおして、御朱印を頂く事にした。
対応してくださったのは住職夫人だった。
逗子も高野山真言宗の寺院が多い話をした。そして、私の家は、赤門で有名な高野山真言宗の東福寺の近くである事を話すと、なんと!そちらの住職は、逗子延命寺の住職夫人と大学の同窓生なのだそうだ。
東福寺の池の話などでも盛り上がってしまった。
住職夫人は言われた。
ここは、黄雲山(こううんざん)と言うのだけれども、幸運という漢字を当てはめても良いのだ、と。
まさに、日本語は深い。
犬よりも なお役立たぬ 我なれど 慈悲にすがりし 同行二人