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遊行の門~読書記録52~

「遊行の門」は、2008年に発刊された五木寛之先生のエッセイである。

自分には何もない、と感じる時が、人には必ずあるものだ。自分は誰にも必要とされていない。生きる値打ちがない、と私もかつて考えたことがあった。
しかし、今私はそういうふうには思わない。人間は、生きている。ただそのことだけでも価値がある。成功しようと不遇のまま過ごそうと、とりあえず今日まで生きてきた。そこに意味があるのだ。
10ねん生きてきただけでも偉い。まして20年、30年、40年と生き続けてきたことは、大変なことである。50年、60年、それ以上に生きたことは、それだけでも凄いことなのだ。
今を生き、なんとか明日をも生きようとしている人々に、心からの敬意を表したいと思う。             著者

私は「遊行」と聴くと、神奈川県藤沢市にある「遊行寺」を思い浮かべる。
鎌倉時代に一遍上人が開いた時宗の寺である。流れとしては、浄土宗からだ。何一つ所有せず、捨て聖(すてひじり)と呼ばれた。少数の仲間と共に各地を流れ歩いたことから、「遊行上人」とも称される。

藤沢市・遊行寺、一遍上人の像


古代のインドには、人生を4つに分ける思想があった。
「学生期」
「家住期」
「林住期」
「遊行期」

「遊行期」とは、人生の最後のしめくくりである死への道行きであるとともに、幼い子供の心に還っていく懐かしい季節でもある。
旅とは行きっぱなしではない。登山とは、必ず、下山がある。
この世に生を受けた人間は、ちゃんと世を去ってこそ人生である。そのしめくくりが「遊行期」であり、人生において最も重要な季節といえるだろう。

20歳で夭折したとしても、20年生きたということは凄いことだと思いたい。まして、40年、60年と生きてきたことの偉大さといえば、ため息が出るくらいのものである。
人は生きているだけで価値がある。
生きている自分は偉い。そう考えることは、決して甘えた姿勢ではないと思うのだ。
不合理な世の中である。格差はいつまでも続く。生きていくことは苦しい。
それでも生きるしかない。ただ生きている。そのことに深い意味があると信じて。

「遊行期」という時期を、「死に場所を求めての旅」というふうに考えると、なんとなく暗い気持ちになる。この季節を「遊びに行く時期」と考えたい。
全てのものは変わる。
全てのものは終わる。
76歳から100歳までの「遊行期」をどう生きるか。それが問題なのだ。

ゴータマ・シッダールタという青年が悟りを開き、仏陀となり、釈迦となり、仏教を開いた。そして、仏陀は、国王の子供という高貴な身分であったと言われている。
なぜか、身分の高い方がいいとされるのであろうか?

現代のアメリカ、日本では「格差社会」と言わざるを得ない。
格差社会の本当の意味は、3つの段階を経て明らかになってくる。
一つは「格差の成立」
二番目は、格差は常に進行し、その差はダイナミックに開いていくということ。
三つ目は、極端に開きすぎた格差が、弦を切った弓のように壊れる時がくるということ。

他にも、多くの素晴らしい事が書かれているので、興味のある方は、こちらをお聴きください。。。

全て朗読いたしました。

興味のある方は、是非、遊行寺まで。

大好きな前住職様。昨年12月、103歳で亡くなられました。

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