江戸から東京へ素晴らしいビジョンを 台東区上野 天台宗東叡山寛永寺 私の百寺巡礼111
上野と聴くと何が思い浮かぶだろうか。
恥ずかしい事に、私は今まで「上野動物園」であった。
子ども?か!
東叡山寛永寺については、全く知らなかったのだ。
そもそも、湯島に行く用事が出来、それなら上野駅を利用するからと、上野駅、湯島天満宮方面の寺社仏閣をホトカミで探したのがきっかけであった。
ホトカミの難点として、1つの建物が点なのだ。たいていは、駅で検索し、近い場所として出て来る。
この東叡山寛永寺の場合、根本中堂は鶯谷駅にあり、寛永寺内の建物の幾つかは現在の上野公園内にある。そして、上野大仏なり、不忍池弁天堂なりは、近くの建物として、鶯谷駅の方にある寛永寺、輪王殿などが載っていない。
4/23(日)に上野公園内を廻り、日曜日の夜、さーて(サザエさん?か!)noteを書くか。とパソコンに向かい、清水堂を検索する。
すると、ここのページに行きついた。
メニューバーを開くと、東叡山寛永寺の諸堂一覧に載っている。
なんてこった!
ということで、4/29(土)に気を取り直して、上野駅公園口から根本中堂他、鶯谷駅方面に向かう事にしたのだった。
全体としては、こちらが一番わかりやすいだろう。
個人的な感想として、東叡山寛永寺は全体の作りが比叡山に似ているなと思った。実に単純な人間である。
それを、親しくしている天台宗のちょっと悪い和尚さまに話した。
ほおおお。そうなのか。
不忍池は人工池だったのか。そういえば、比叡山自体も京都からすると鬼門だと聴いた事がある。
元々、江戸幕府が開かれる前の江戸は大変な田舎だった。豊臣秀吉からの命令から家康は東に行かされるわけだが、その後の家康は実に素晴らしいなと思うことが幾つもある。
それは、芝増上寺にみられるような、庶民が自由に暮らせる町作り。神道も仏教もどちらでもよしとする神仏習合で宗教の自由を認めたのだ。
そして、家康の側近として活躍された天海上人。この方の存在なくしては、江戸の発展、江戸幕府の安泰はなかったのではないだろうか、と勝手に思っている。
と、引用したが、私が廻った所を紹介したい。
まずは、中心である根本中堂だ。
徳川幕府により創建された。幕府の安泰と天下泰平を祈る祈願寺である寛永寺の中心堂宇として建立されたお堂である。
歴史を感じるものであった。
開山堂・輪王殿は同じ敷地内にある。
開山堂は、東叡山の開山である慈眼大師(じげんだいし)天海大僧正をお祀りしているお堂。天海僧正が尊崇(そんすう)していた慈惠大師良源(じえだいしりょうげん)大僧正もお祀りしているところから、一般に〝両大師〟と呼ばれ、庶民に信仰されてきた。
広い敷地に心休まる思いがした。
そういえば、東京は狭い、狭いと思いながらも、上野は割と広々としているのだ。
上野公園内にある清水堂だ。
天海上人の毛髪が納めてある毛髪塔がある。
天海大僧正は寛永2(1625)年に、二代将軍徳川秀忠公から寄進された上野の山に、平安京と比叡山の関係にならって「東叡山寛永寺」を開いた。これは、比叡山が京都御所の鬼門(艮=東北)を守るという思想をそのまま江戸に導入することを意味し、江戸城の鬼門の守りを意図したす。そして比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎を次々と建立したが、清水観音堂は京都の清水寺(きよみずでら)を見立てたお堂だ。
寛永八年(1631)に初建された上野の大仏様は度々罹災(りさい)しましたが、その都度復興されている。
しかし関東大震災によりお首が落ち、第二次大戦時には軍の供出令(きょうしゅつれい)により胴体を徴用されて、お顔のみが残された。
大仏殿の跡地にはパゴダ(仏塔)が建立され、本尊として旧薬師堂本尊の薬師三尊像が祀られている。
”大仏を 埋めて白し 花の雲”
子規
こちらは合格祈願で有名なのだろう。祈願絵馬が多数かけられていた。
不忍池の中にポツリと浮かぶは弁天堂だ。弁才天と大黒天が祀られている。
ついつい、衝動買いしてしまった。
天下泰平を祈りながらの江戸の発展がわかった旅であった。
天台宗東叡山寛永寺
上野駅下車、上野公園内を散策しながら歩くのがベスト。寛永寺根本中堂は鶯谷駅から徒歩8分。