褒められると死にたくなる理由を考えてみた
僕は決して、天邪鬼でもなければ、逆行することがかっこいいと思って疑わない思春期真っ盛りの中学二年生でもないのだけれど、それになってしまったかのような出来事を今まさに、経験している。
他人から称賛されたり、愛情を受けたりすると世界中のどの国のどんな人間であろうと、喜怒哀楽の喜と楽に近い感情を抱くのは頭の悪い僕でも想像ができるし、明白な事実だ。勿論、思春期という時期はそのようなものに気恥ずかしさを感じることもあるが、僕のように「死にたい」と思うことはそうそうないんじゃないだろうか。流石に、死にたくなるから褒めないで欲しいなんてことは考えなかったが、何故そう思うのか疑問に思うところがあった。
僕は最初、思春期特有の羞恥、それの延長線上か、少しベクトルがずれたものだと自己完結させていた。ただ、具体的にどう感じるか、と聞かれるとどうも羞恥とは言えないような、明らかに違う感情だったため、この考えは一度捨てることにした。そもそも、僕も詳しくはないが人に褒められて、死にたくなるなんて感情のメカニズム的におかしいだろう。おそらく、褒められることに対してなんらかの原因が影響して、死にたくなるのだろうと、そう考えた。
だったらその原因とは何者なのか、なんとなく予想はついた。自己肯定感の低さだ。何かにつけて、自分を蔑むことが癖になり始めてしばらくたった頃だったのである程度諦めていた。どう頑張っても、褒められることを素直に受け入れられない体になっていたのかもしれない。自分は褒められる資格がない、出来損ないの人間である。だったり、褒められてもなにも進歩のない、動き出せない人間である。ということを考えていたのだと思う。
そこから死にたくなることに繋がるかというと完全なイコールではないが、簡単に考えることは可能だった。褒められる資格がない、出来損ないの人間であると一度考えると、だったら生きている必要もないのだろうとどんどん悪い方向に流れていくのだ。そして結局、死にたくなってしまう。この悪循環は自己肯定感が低ければ低いほど止められないと思う。相手からすれば非常に迷惑な話だと自分でも思った。相手を肯定したつもりが、相手は勝手に自身を否定してしまう。こんなに酷い話があるだろうか。この場合、相手の方が100おかしいし、理解されることでは決してない為、僕は既に諦めているし、どうとしようというつもりもさらさらない。努力したところで結果は変わらないのは目に見えている。とどのつまり、まわりの理解なんて求められない、自分でも変えられない、詰み状態なのだ。ただ、その変えられないという事実を飲み込んで、受け入れて過ごしていくことは絶対に必要だと思う。そうすれば幾分かマシだろう。事実を変えるのではなく、事実があることを肯定することはもしかしたら、とても重要なことなのかもしれない。