助産と鍼灸(11)
風の子堂鍼灸院 中谷 哲
『積聚会通信』No.12 1999年5月号 掲載
Vol.9、Vol.10と出生前診断について書いてみた。今回もそれを受けて引き続き考えてみたい。
私の鍼灸院の患者さんに二分脊椎症の人がいた。この人の障害は人工肛門に人工膀胱、多少歩行がしにくいという程度で、日常はそれほど問題は無いように見える。もちろん鍼灸に来るのだからそれなりの症状もあるし、気の偏りも当然ある。その事を考えてもそれ以上のことはなく、他の人と変わらないといってよい。この人はある団体のトップとして国会で意見を述べたり、社会的に責任のある大きな仕事をこなしている。もしこの人が生まれる段階で出生前診断があったらどうだったろうと考える。おそらく検査は陽性である。
生まれたばかりの子供が、将来何になるかなんて誰にもわからない。現在どんなに重要な仕事をしていても、否、仕事など関係ない。その上で生まれる以前に必要のある人と、ない人の区別ができるのであろうか。
テクノロジーの進歩に伴い我々はこうした問題と直面することになる。生まれるまでは男か女かわからなかった時代は遠い昔の話になりつつあるのだ。
自分の子がおなかの中であくびをしているのを超音波で見ても、たいていの人はこの検査はいったい何をしているのかということは考えない。わが子の姿を見せてもらって嬉しいという事はあっても、その時に異常が見付からないかぎりその検査の意味など誰も考えないだろう。
もしかしたら、そんなところに現在の検査主体の医療になってしまった要因があるのではないか。私も友人の子供が胎児のときに食道の奇形が発見されて、出生後に手術をしたという話を聞かなかったら、何も自分のこととして考えなかったろう。
最近こうした最新医療に対して自分の立場はどうなのかよく考える。
例えば「脳死」などは、私のように気の流れを生命の主体としてとらえる鍼灸師の立場でいえば、恐らく脳死の判定があろうと、なかろうと気が流れているうちは死ではない、ということになるだろう。実際そういう個体に触れたことがないのでなんともいえないが、多くの家族が生きていると感じたというように気の流れも感じるのかも知れない。
成人の場合は脳死判定を受けてから1週間前後で心臓も止まるそうだが、乳幼児の場合は1年くらい脳死の状態を続けることもあるようだ。この場合は脳は完全にとけてしまうそうだが、身体は良好なのだそうだ。こうなると人間というのはどこまでが人間なのかわからなくなってくる。
鍼という金属を通して気の交流ができるように、人工心肺装置も気の流れの中に入り込むのだろうか。考えてみれば私の鍼灸も鍼や灸を持ったときだけが鍼灸ではない。ベッドや椅子、壁にかかったものすべてが私であり、私の鍼灸、私の気なのかも知れない。
ある鍼灸師の集まりで、こんな話題になったことがあった。「医学の進歩で今まで助からなかった子供も助かるようになった。」話の内容は医学が進歩しているのだから、私たち鍼灸師も進歩する必要があるという結論なのだが、果たして本当にそうなのであろうか。
医学が進歩しているというのには疑問符が付く。周辺のテクノロジーが進歩しているというのなら納得もいく。私自身はむしろ私たち鍼灸師の拠り所である『黄帝内経』の時代から医学は変わっていないのではないかと思う。