助産と鍼灸(8)
風の子堂鍼灸院 中谷 哲
『積聚会通信』No.9 1998年11月号 掲載
SIDS (乳幼児突然死症候群)という診断が安易に使われている。そんな事があるのであろうか。
病院などの施設で新生児が死亡した場合、原因がはっきりしている場合を除いて比較的安易にSIDSという診断が下ることがあるらしい。
SIDS自体の原因がよく分かっていないために、診断が非常に曖昧なものになりやすい。その結果SIDSという診断が増加してしまうのはある程度止むを得ないことなのだろうか。
さて、そうしたSIDSの診断の中にもも、さらに重大な問題が含まれている場合があるようだ。例えば病院側に過失があって新生児が死亡した場合、その子供の両親が気付かぬうちに死亡診断が確定してSIDSとして処理されてしまったらどうであろう。両親は子供の死因を特定する術を持っていないのであるから、病院からSIDSと言われてしまえばそこでおしまいになってしまう。
この記事を新聞で見たときには、「あっ」、と息をのむ思いであった。SIDSはこんなふうに利用できるのか。現代医療の問題を見事に象徴している出来事のように思えた。
西洋医学は分類の学問と言っていい。いや、西洋医学だけでなく、現代の西洋哲学をもとにした学問は分類にその多くのエネルギーを注いでいる。
しかしながら曖昧な分類は、その運用の幅を広げてしまい、思いもよらぬ方向に結果を向かわせてしまう。
私たちはこの構造をよく考えておかなければならない。
この曖昧な分類は何も西洋医学だけのことではないからだ。例えば、肝とはなんぞや。この問いにどう答えるだろう。人により肝の幅があり意味することが微妙に異なっているのはいうまでもない。
私たちの立場が、物の見方と言い換えてもいいのだが、西洋医学的である場合、この曖昧さは実に不都合なものとしてとらえられるであろう。
では運用の幅を狭めるように規定を厳格にしたら良いのだろうか。古典を研究して用語を統一すればどうであろう。結果は初めから明らかである。現代の私たちの思考方法では暖昧な分類という構造から逃れることはできない。
古典力学から量子物理学に至る課題と同じものを私たちは抱えているのである。
例えば施術者と患者の関係で見た場合、これまでの治療のベクトルは施術者から患者という向きであった。この方向では治療が際限なく拡大してしまう。病名が増加すれば、それにともなって穴や治療が増加することになる。
これに対して本来の東洋医学的な立場は逆である。つまり患者側から施術者の方向にベクトルが向かっている。患者の反応が最大の目安となるので、それと突き合わせるために治療は最小限になっていく。際限のない拡大から最低限の縮小に転ずる。
情報の送り手の文化から受け手の文化に変化する。ここに私たちの問題を解決する鍵があるのではないだろうか。
積聚学の始まりでである。