卑弥呼さんから台与さんへ。政権の移行はどのようにされたのか
政権の移行がどのようにされたのか。そのために、まず、知らなくてはいけないことは、卑弥呼さんの最後がどのようなものであったのか? ということ。
私は、病気などによる自然死ではなく、政権が不安定になったことによる暗殺、といったような最期ではなかったかと。
なぜ、卑弥呼さんはこのような最期を迎えたのか。ひとつは、ご神託が的中しなくなったということ。もう一つは、政治体系を神様のご神託に頼るアニミズムからの脱却だったのではということ。
卑弥呼さんの時代、天候不順が続いたという報告があります。邪馬台国で最も大事だったことは、農業に関すること。特に、稲を植える時期を知ることは、最も大切な情報だったのです。もし、収穫が少なくなれば、それは国の存続も、そして人々の生活にも大きな影を落とします。
卑弥呼さんがご神託をいただいても、その通りに天候が定まらない、その結果、収穫が思うようにいかない。そのようなことが2年も続けば、人々の信頼を失う結果になります。
もう一つは、邪馬台国の有力者たちが、アニミズム、つまり神さまの支配から脱却しようと考えたこと。魏の文化などに触れる間に、人が国を治めるということに魅力を感じていった。そのためには、卑弥呼さんという存在が邪魔になる、ということですね。
そして、天候不順という、またとないチャンスがやってきた。彼らはその時を逃さず、計画を実行した。
卑弥呼さんが暗殺されたと考える理由として、まず、八咫鏡の呪いということ。八咫鏡は天照大御神さまが、私自身だと思い大切にするようにと、孫であるニニギノミコトさんに送ったもの。
卑弥呼さんと天照大御神さまは同一人物、というか同一神。どっちだ? と考える。太陽の巫女である卑弥呼さんを神格化したものが天照大御神さま。
そんな鏡が、自分の子孫に対して祟ったり、呪ったりするはずがない。じゃあ、なんで、そんな話が生まれたのか、っていうことです。口にはできないけれど、心の奥底に忘れられない深い思いがあったからでしょう。
と、いうことで、卑弥呼さんの死後、男王が立った。でも、国を治めることはできなかった。
そこで、また、女王を、ということで、台与(とよ)さんに白羽の矢が立った。
なぜ、台与さんは卑弥呼を名のらなかったのか?
唐突で申し訳ありません。私は、卑弥呼という名を、個人名とは考えていないんです。そう、いってみれば役職名。
太陽の巫女さんを卑弥呼。そして月の巫女さんを月読。このように邪馬台国では呼んでいたのではと。
卑弥呼さん亡き後、当然、太陽の巫女さんから後継者を探したはず。でも、後継者となりうるほどの能力のある人がいなかった。それで、月の巫女さんであった台与さんに白羽の矢が立った、ということでしょう。
台与さんが後継者に指名されたとき、台与さんは今の邪馬台国の状況、そして民のことを真剣に考えた。そのくらい聡明な方であったはず。
そして、選んだ道が、絶対権力者である女王ではなく、周りとともに国を運営する女王という立場。
先にもご紹介しましたが、当時の邪馬台国は、天候不順に見舞われていました。ですから、すでにご神託への信頼は薄らぎかけていた。さらに、新しい国の形を探す動きも加速していた。
だからこそ、絶対的な女王ではなく、周りと協調し、ともに国を運営していく。つまり象徴的な女王という立場をとったのだろうと。こうすることで、アニミズムに反対する勢力も味方に引き入れることができる。だから、あえて卑弥呼という名を使わなかった。
その結果、国にまた、まとまりができる、と。そして、その思惑は的中したのです。
そこから、台与さんは、少しずつ国政から距離をとります。このあたりのことを書き記したのが、古事記の「天降」の一節。天照大御神さまは天の岩戸を出てから、一人ではなく、高木の神さまと一緒に、ほかの神様に詔を述べられます。
天の岩戸に入るまでの天照大御神さまと、全く違う方になってしまっていますね。それまでの天照さまは、すべて一人で何ごともされていた、なのにです。
これが、卑弥呼さんから台与さんに女王の地位が移り、邪馬台国の政権運営が変わった、ということを示しているものといえるでしょう。
台与さんが国政から距離をとることと並行して、月読さまの存在も消していきます。
先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)での三貴神誕生のくだりで、天照さまと月読さまは、並んで五十鈴川の河上に坐したと書かれています。
”伊弉諾尊が御身をすすがれたときに,三柱の神が生まれた。
左の御目を洗われたときに成るところの神は、天照太御神と名のる。
右の御目を洗われたときに成るところの神は、月讀命と名のる。
五十鈴川の川上に並んで坐す、伊勢に斎き(いつき)祀る大神という。”
天照さまと一緒に坐されていた月読さまを、豊受さまに変えてしまいます。つまり、月読さまは秘されたのではなく、自ら身を引かれたということに。
こうして、少しずつ国政から身を引き、シャーマニズムの支配から、人が運営する国家へと形を変えていきました。
田植えの時期はどうやって知ったのだろうか
ご神託を受けることなく、人々はどのようにして田植えの時期を知ったのか。
天体観測などで、田植えの時期を知ることができたでしょう。魏志倭人伝にも、倭人は暦を使っているという記載がありますから。
さらに、銅鐸。銅鐸にはいくつも穴がありますが、その穴を日光が通過するときが春分の日、となるように開けられているということも分かっています。銅鐸って、不思議なことに穴の位置はすべて同じなんですね。
銅鐸はもともと祭祀に使われていたものですが、祭祀に使っていなかったと思われるものも見つかっています。このような銅鐸は、季節を知るものとして使っていたのではと考えられています。
銅鐸の使い方については、関口直甫氏の「銅鐸と太陽」という論文をお読みください。ネットですぐに見つけられます。
このようにして、暦や道具を使って、春分の日をはじめとする、田植えに必要な情報を、すでに手に入れていたのです。だから、台与さんが少しずつ国政から身を引いて行っても、国内が混乱することはなかったのですね。
台与さんはその後どうしたのだろうか
台与さんのその後のことは、日本書紀、古事記、そして魏志倭人伝にも出てきません。でも、国政から身を引いた後は、穏やかに過ごされたといえます。
なぜ?
邪馬台国の現状を知り、人々の思いを考え、皆が幸せに過ごせることに心を砕いて、行動したのですから。周りから疎ましく思われることはありません。
そうはいっても、何もせずに過ごしたわけではなく、かつてのように、月の巫女さんとして、必要な時にアドバイスを送るということはされていました。
立派に仕事を成し遂げ、時期が来たらさっと身を引く、そんな方だったのでは。
だからこそ、日本で最も古い家系図であり、国宝でもある、海部氏系図(勘注系図ともいいます)に記載されている「大倭姫(おおやまとひめ)」のひとりが、台与さんではないかと言われているのでしょう。この大倭姫さんって、二人しかいなんです。もちろん、もう一人は卑弥呼さんでしょう。
絶対的女王であった卑弥呼さんから、台与さんへ女王の座が移り、邪馬台国は、シャーマニズム、神の国から、人が統治する国へとその姿を変えていった。
と、私は想像してみました。
そう、台与さん、大倭姫は、豊受姫荒魂命(とようけひめあらみたまみこと)、そして、大宜都日女命(おおげつひめのみこと)とも呼ばれるんです(これも海部氏系図に書かれています)。
と、いうことは、今も台与さんは私たちを見守ってくれている。そして、日本中どこででも願いを聞いてくれる、これって、やっぱり、うれしいですね。