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PUBLIC LIFEを読んで【ひよこの読書交換日記スピンオフ】

10年以上お世話になっている青木純さんが今年一冊の本を上梓した。
住まいの大家でもあり、飲食店のオーナーでもあり、まちづくりの担い手でもある異色の青木純さんという人の半生を描いた一冊だ。
その読書感想文を書いてみようと思う。

純さんを「暮らし」という名の音楽を奏でる一人の音楽家としてとらえてみる。一時期、純さんは仲間を集めて「まめくらし楽団」と呼んでいた。何かと争い戦うチームというより、ハーモニーを共に奏でてくれる仲間たちとして、みんなのことをそう呼びたかったのだろう。
一見、音楽とはかけ離れた純さんの半生だが、この本を読むとまさに音楽家的アーティスト人生であることがよくわかる。

現代の音楽は、プロが作り演奏し歌う楽曲と、聴く・受け取る側のオーディエンスの二極化が基本だ。でも、本質的に音楽というものは生活の近くにあって、人が楽しいときや心地よいとき、気合を入れたい時や心を鎮めたい時に、みんなで歌ったり演奏したりする、人々に密着したすぐそばにあるもののはずだ。

「住まい」というものも、実はよく似ている。現代は、プロが作る完成された商品の「住まい」の中から好みのものを選んで、受け取る側の人々は自分の暮らしを作っていくような二極化だ。純さんの半生は、この構造にメスを入れ続けているように思う。

純さんの初めの仕事、不動産会社の会社員は、CDショップの販売員と似ている。自分では物件という曲を作らず、ほかの方が生み出した曲を並べて売りさばくという仕事だ。
純さんは持ち前の努力で、工夫して売り上げを伸ばすけれど、そもそも人気曲ばかりを並べたり、特典目当ての曲ばかり売り続けるような、目先重視の商売に疑問を持つようになるまでには、そう長い時間はかからなかった。

純さんはやがて曲を自分で作るようになる。最初は親が持っていた物件を譲り受けて大家になる。いわば、親から引き継いだ伝統曲の編曲家になったような形だ。でも純さんはそこで、伝統的な曲の概念を壊し、住人を聴く人から演奏家に変えた意欲作を作り上げる。
純さんが紡ぐ曲が、他の音楽と違うところは、つくる人と聴く人を分けない形だ。住人は聴く側であり、演奏家でもある。純さんが作る曲に住人を巻き込んで、一緒に演奏してより自由な曲に作り替えていく。でも、住人と大家が全て対等なわけじゃない。大家としてみんなを「楽しませて安心させる」ことに純さんは全力を尽くす。そんな変わった編曲家として有名になる。

そして、次に青豆ハウスという新築物件、ゼロから作った新曲を手掛けるようになる。コンセプトに共鳴した人たちと共に暮らして曲を伝える。そんな純さんの曲が好きな住人たちは暮らしながらその曲を味わい、さらに暮らしの幅を少し延長させ、純さんと共にお祭りを開いたり、人を招いたりして「演奏」する側に回る。そんな住人たちの演奏をそばでワクワクしながら見守るのが純さんの作曲スタイルだ。

続いて、純さんが手掛ける都電テーブルは新ジャンルの挑戦。「住まい」ではなく、食を通じてまちにもう一つの「暮らし」の形をつくる。昔から根付く民族音楽の再編によって新たな音楽ジャンルを作り出すような意欲的なスタイルだ。「暮らし」に寄り添うような人間性を見直すジャンルの曲を、地元で演奏し続け、まちの人々の「暮らし」を少し潤せるような音楽を紡ぐ。
さらに、都電テーブルというお店を通じて、食材の生産者や料理人たちの情報発信拠点をつくり上げ、つまり、作曲家・演奏家とオーディエンスが直接触れ合えるライブハウスのような拠点のオーナーにもなった。そういうアーティストとファンダムを一体にしたつながりによって、コロナ禍を乗り越えていったのだろう。

やがて、純さんは「まち」という組曲にも挑戦。南池袋公園というテーマ部分を作り、多くの演奏家を巻き込んで、池袋で組曲を指揮し続ける。曲を作って終わりじゃなくて、定期公演を開いて演奏を止めない。音楽家たちをどんどん集めて生み出していく求心力。色んなタイプの作曲家・演奏家を見つけて、その組曲に巻き込んでいく。日常を劇場にするコンダクターであり、行政と交渉し劇場を広げていくプロデューサーでもある。

どんなに面白くて有名な作品を作ったとしても、大きな曲を手掛けて広げていけばいくほど、曲は批判にさらされることが多い。制作の過程でさえ、スポンサーや、あるいは以前は純さんと共鳴していたはずの演奏家や作曲家から異を唱えられることもある。それでも純さんは未来のために明るい「暮らし」を作ろうと前を上を向いて歩み続けている。

こうしてみると、人々の心にそっと明りを灯す音楽の作り方と、暮らしを少しずつ豊かにさせる純さんの取り組みは案外似ている。
親のマンションの編曲から始まり、青豆ハウスという新曲を作って、都電テーブルというライブハウスを開きつつ、南池袋では組曲をつくってスケールを大きくし、演奏家を束ねて公園で指揮をして、ローカルな劇場をつくっていく純さんの半生は、生み出す苦悩と束ねる苦労の先で、様々な人々を笑顔にさせていく異端のアーティストだ。

大家の学校は、様々な演奏家、作曲家、編曲家の卵に、「暮らし」の音楽の美しさを伝える学校だ。理論やテクニックではなく、音楽を生み出す苦しさも楽しさも全部話して「暮らし」の美しさを伝える学校。曲作りをマンツーマンで支える「大家のセコンド」なんてこともやっている。

最近の純さんは、いろんな街で地元の演奏家や作曲家を集めて、組曲を演奏し続けて音楽という暮らしの美しさを伝え続けている。きっと斬新な「住まい」という曲はまだまだ作れる人だけど、新しい音楽家が作り演奏する新しい曲が聞きたくて、一緒に演奏したくて堪らないんだと思う。

そういえば最近、純さんの作り出した名曲「青豆ハウス」のリミックス版である「まめスク」ができたらしい。純さんがプロデュースしてるけど、ほぼ住人だけの演奏を目指したリメイク作品のようだ。私も演奏家として関われるかしら。

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