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現実逃避先の下見

 嫌なことが続いたり、仕事で切羽詰まった日々を送っていると、
「あ~、どこかに行きたい。できれば温泉街が良い。そこで数日、一人で引きこもりたい。ここから逃げたい」
 という欲求が湧いてくる。

 ただ、どこでも良いわけではない。
 とにかく日常から離れたいつ思いつつ、でも、落ち着くところが良い。誰かとわいわい喋るのではなく、一人で静かに、窓の外をぼーっと眺めていても許されるような雰囲気の場所が良い。「外に出て観光しなきゃ」と駆り立てられるほど、遠すぎない場所が良い。そして、費用が高すぎないこと。
 我ながら、注文が多い。
 仕事の休憩時間にスマホで理想郷を探し、候補地を見付けたので、日帰りで下見をしてきた。

 その候補地というのは、温泉津。島根県大田市にある温泉地だ。

平日の夕方のためか、人通りはまばら

 候補地とした理由は、泊まってみたい宿泊施設があり、かつ、入ってみたい温泉があったためだ。また、飲食店が近くに複数あり、かつ、嫌になるほどの人でごった返していないことも重要だった。
 とはいえ、雰囲気については行ってみないと分からない。

 細い道を抜け、まずは温泉に向かった。
 正直、道幅の狭さについても心配していたが、何とかなった。ただ、すれ違える自信はあまりない……。

 なんとか車を駐車場に停めて、いざ温泉へ。今回訪れたのは“薬師湯”。日本温泉協会の天然温泉の審査で最高評価の“オール5”を受けた、100%本物のかけ流しがウリの温泉だ。
 そして、その外観がレトロで可愛らしいことも、人気の要因となっている。

入ってすぐ番頭台があるタイプ!

  入浴代金を払うと、女性の店員さんが入浴方法について丁寧に説明をしてくれた。ざっくりまとめると、こうだ。

  1. 入浴前に1杯の水を飲む

  2. しっかりかけ湯をする

  3. 2~3分温泉に浸かったら、いったん湯舟から出て少し休む

  4. 3を数回繰り返し、額にうっすら汗が滲んだら上がる

  5. 入浴後にも水分を取る

「石鹼等も販売はしていますが、ぜひ、そのままかけ湯だけでお入りください。温泉から上がるときも、シャワーで洗い流さない方が温泉効果が望めますので、そのまま上がられることをお勧めしています」
 とのこと。ボディソープやシャンプー等で体や頭髪を洗ってから入る温泉しか経験したことがなかったので、とても驚いた。

 せっかくなので、教えてもらったとおりに入浴する。
 水を飲んでから浴室に入り、置いてあった桶を使って、足元から順番に、数回に分けてかけ湯をする。お湯は、けっこう熱い。
 最初は、湯舟の入り口あたり(ここで約42度らしい)で数分浸かる。そして、湯舟から出て、椅子に腰かけて体を休める。
 そして、また湯舟に入り、2~3分後にいったん出る。これを繰り返す。お湯の温度に体が馴染んだところで少しずつ湯口付近(45~46度らしい)に近付いてみたが、湯舟の真ん中あたりが、私にはちょうど良かった。

 サウナのような入り方だな、と思う。サウナは息苦しくなるため、苦手なのだが、これなら私でも問題ない。湯舟の外で、湯口から注がれるお湯の音と、外から聞こえる鳥の声に何となく耳を傾ける。湯口から湯舟の入り口に向かって半円の細かい波紋が波打つ様子を、ぼーっと眺めていると、それだけで癒された。ちょうど浴室には私以外の客がいなかったため、人目を気にすることもなく、存分に温泉を堪能した。

 数回繰り返すと、体は次第にポカポカし始め、5回目あたりで鼻先に汗をかき始めたので上がることにした。

 

2階の休憩スペース

 着替えて水分補給をした後、2階と3階にある休憩スペースに向かった。3階の屋上はベランダに出ることができ、温泉津の街を一望することができたが、先客がいたため景色だけ見て降りた。
 2階の休憩スペースで、外を行き交う人たちを見ていると、なぜか懐かしい気持ちになってくる。自分の家から、窓の外を眺めているみたいな気持ちで、つい時間を忘れて外が暗くなっていく様子をただ見ていた。
 この間、じわじわと体が温まり続けていくように感じられたし、実際に手先まで桃色になっていた。お酒を飲んでも赤くならないタイプのため、ここまで自分の肌が染まることが珍しく、とてもびっくりした。


日が暮れるにつれ、少しずつ灯っていく明り


 薬師湯を堪能したところで、もう1か所、行きたいお店があったので寄ることにした。
 そのお店とは“本と喫茶のゲンショウシャ”である。

外観も内装もお洒落

 スパイスカレーが食べたかったが、お腹の空き具合の関係からそれは次の機会とし、ソルティショコラのテリーヌと、野草茶(カキドオシとレモングラス)を注文した。

店内に置いてあった本を片手に

 カキドオシとレモングラスの野草茶は、疲労回復や肩こり解消に効果があるとのことで、気になっていた。ミントのようなツンとする香りと、レモングラスの柔らかい甘みが混じって、爽やかなのに地に足のついた感じのする、不思議な味わい。急須2服分いただけるとのことで、ゆったりと飲ませていただいた。

 ソルティショコラのテリーヌは、運ばれてきた瞬間から上品なチョコレートの匂いがして、ドキドキした。
 実は、ここ最近、家でチョコレートを食べないようにしている。いったん食べ始めると、家中のチョコレートがなくなるまで食べつくしてしまうくらい、チョコレートを愛している。しかし、そんな私を体重増加と物価高騰の波が襲った。でも、諦めきれないから、外食と貰い物だけは食べても良いことにしていた。

 一口食べただけで、チョコレートの濃厚な味わいに頬が緩む。次から次へと口に入れたくなる気持ちに待ったをかけるように、後から塩のしょっぱさが追いかけてくる。このおかげで、がっつかずに味わって食べることができたと思う。
 ゆっくり時間をかけて食べたこともあってか、とても満足感と幸福感でいっぱいになりながら、帰路につくことができた。


 すっかり暗くなった外の道を、飲食店の看板を眺めながら歩く。
 食べるだけではなく、お酒が飲めそうなお店も複数あり、行きたくなる気持ちをグッと堪えた。

 次は、ぜひ泊りたい。温泉に浸かって、ご飯を食べて、飲み歩いて。部屋でゆっくりして、朝寝坊したりして。もしくは、逆に早起きして朝散歩からの朝風呂をしたりなんかして。

 日常生活に疲れたら、ここに逃げ込もう。
 そう思える場所を見付けたからか、日常へ帰る足取りが少し軽くなった気がした。