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#82 勘違いで崩壊したベルリンの壁
1989年11月9日、冷戦の象徴だった東西ドイツを隔てたベルリンの壁が崩壊した。その直接的な原因はある政府高官の勘違いだった。
第二次世界大戦後、ドイツは分割統治され、西ドイツが資本主義側、東ドイツが社会主義側の国として独立した。
元々のドイツの首都ベルリンは東ドイツ内にあったものの、ベルリン内でも分割統治が行われていたことから東ドイツの中に孤島のように西ドイツ領があるという形となっていた。(下図)
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経済体制が違った西ドイツと東ドイツでの経済格差が明確になるにつれ、東ドイツから西ドイツへ亡命する国民が後を絶たなかった。
とくに、西ドイツの飛び地である西ベルリンは東ドイツの国民にとって逃げ込みやすい都市となり、西ベルリンを通して西ドイツへ出国する東ドイツ国民が大勢いた。
事態を重く見た東ドイツは、1961年に突如として西ベルリンを取り囲むベルリンの壁を建設し、東ドイツから西ベルリンへの出国を強制的にできないようにしたのである。
しかし、それでも出国者は後をたたず、ベルリンの壁を越えようとして射殺された人もたくさんいたという。
現在、ベルリンの壁の跡地には崩壊時に出たコンクリートの破片が地面に埋め込まれており、ところどころに壁を越えようとして殺害された人々の死を悼んだ十字架がある。
1980年代後半になると、ソ連のゴルバチョフ書記長による冷戦融和や、東ヨーロッパの民主化の波が東ドイツにもおしよせた。
東ドイツではまず手始めに国民が自由に他国へ旅行することを可能にするという法律をつくった。
その発表の際、広報担当者のギュンター・シャボフスキー氏の勘違いがベルリンの壁崩壊につながった。
結果として、この勘違いは歴史を変える世紀の勘違いになってしまった。
政府が法律を作成したのは11月9日。
法律の本来の内容は、「11月10日から国民が出国のためのビザ申請を行えるようになる」というものだった。
しかし、シャボフスキー氏は法律の詳細や期限を勘違いして、記者会見で「東ドイツの国民は自由に国境を越えられるようになる」といった趣旨の発表を行ってしまった。
さらに、記者の「いつからですか」という質問に対しては「即刻だ」と返答してしまう。
その様子はニュースで伝えられ、放送を見た東ドイツの国民がベルリンの壁に殺到。
混乱状態の中、興奮した市民らがベルリンの壁を壊すという事態となり、その様子は即刻全世界に放映された。
その様子を伝えている映像がこちら。
ちなみにYouTubeには「トリビアの泉」で紹介された動画もアップロードされている(たぶん違法なのでリンクは貼りません)。
冷戦の象徴だったベルリンの壁が崩壊したことで、冷戦終結への流れが急加速し、直後の1989年12月に開かれたマルタ会談では冷戦終結が宣言された。そして翌1990年には東西ドイツも統一。
1人の政府高官の勘違いの記者会見が世界の歴史を大きく変えたのである。
☆今回の記事の参考にしている本がこちら↓↓
【目次】