環境と文化と物の見方で感じたこと
過去にある人にこう言われたことがある。
「あなたの国の常識やマナーが他のどの国よりも優れているなんて思うな。」
それは確か、私がその人に「日本ではこうしないといけない。日本ではこれが常識なんだ。」と言い続けていた時に言われた言葉だと思う。そして、その人自身、自国の文化、歴史、食、アート、全てに於いて誇りを持っていた。だから余計、私に文化や常識の押しつけをされて苛立ったのだと思う。
彼自身この国に長年住んでいて日本が嫌いな訳ではない。しかし彼が育ってきた国や過去の人生の中で培われてきた物の見方や考え方や経験を、私自身全く理解しようともせず「日本はこうだからあなたもこうすべきなのだ。」という押しつけによって自分自身が否定されていると感じた上の怒りだったのだと思う。
更にはこの国に住んでいる中で、彼自身理不尽な出来事を経験していた事にも起因していたと思う。彼は、過去日本以外の国に住んでおりその何カ国も過ごした経験を元に、どうしてという思いがある中で発した言葉でもあったのだろう。
今思えば、逆の立場だった私も同じ行動を取ったと思う。
しかし、私はこの国に生まれ、この国で育ち、そしてこの国の当たり前の中で生活をしてきた。だからその時はこの国の常識が、他国ではそうではないという点があったとしてもそれに気づく事も比べる事も出来なかった。仮に疑問に思う事があっても、「仕方ないじゃん、だってこの国ではこうなんだから。」と目をつぶって波風立てずに生活してきた事も否めない。
育ってきた過程の中で受けてきた躾や教育、物の考え方が、彼のその経験してきたものと乖離があったわけである。
郷に入りては郷に従えという言葉はあるだろう。
しかし、彼の国では違うのではないかと思った事に関しては声を上げて意見をするという文化からか、きちんと自分の想いははっきりと相手に伝える。
自分の欠点は自分では気づきにくく、仮に人から指摘されてもなかなか認めたくないと感じるが、外側からではないとなかなか気づけない点がある。我々はそんなこんなでお互いの性格をはじめ、国・政治などの意見を交わす事が多くなった。
そんな彼との意見交換が私の物の見方を少しずつ変えた。「なるほどね。そういう物の見方もあるんだ。」と。
相手の意見を聞く。そしてどうしてそう考えるか理解しようと努力する。自分の感じるそれとは乖離していて、最初はなかなか受け入れる事が出来ないかも知れない。でも相手のコアになっている物の考え方だったりが分かるようになってくると、相手が何を考えてそう意見を言っているのかが分かってくる。
そうすると、今までと違った角度から物を見る事が出来るようになり、今まで気づかなかった点にも気づく事が出来るようになる。
そこには、それぞれの育ってきた環境、教育、経験がベースにあるから、皆それぞれ一つに対しての物の見方は違って当然だ。
それは、私の子育てにおいてもぶつかった局面であった。
私自身が、子どもに対して”きちんとさせなければ”という漠然とした想いから、一方的に自分の想いを押し付ける事があった。そこには何故抵抗するかを考えずに「そうだから」という理由だけで躾をそのまま娘にしてきたところもあった。
0歳から保育園に入れ仕事をしながら子育てしていた私だが、彼女は物凄く自己主張の強い子どもだった。物を買ってもらえず駄々をこねたという事は一度もないが、自分がこうしたい!と思った想いを聞いてもらえず、理由も分からず親の都合だけで却下されたときは、それはそれは抵抗した。
2歳の頃、洗髪が嫌いで私と相当喧嘩した事があったが、その喧嘩を聞いていた友人は、彼女の気の強さと絶対に負けてたまるかという抵抗力に圧倒されていた。
しかし彼女は保育園において、きちんと自分の想いを先生に伝え、また先生の想いもきちんと聞くというコミュニケーションの躾を受けていた。
そして、保育園の先生方からの彼女の評価は思いの外良かったのである。自宅の彼女とは全く違っていた。親の私はビックリである。
要は、自分の意見を聞いてもらえず、親の都合だけで全て決められるのを嫌がった。しかし、きちんと彼女の想いを聞き、私の想いを伝え、彼女自身納得すればすんなりと聞き入れた。
そして彼女は上記の彼の娘である。
そんな私の娘は現在12歳であるが、私と性格が違う。物の考え方も違う。私と育ってきた過程も違う。0歳から社会という組織で育ってきている。だからなのか明らかに私より社交性がある。
当たり前だが、私と違う人間である。たまに似ているなと思う事はあるけれど、勿論似ていない点も多くある。
だから私は、保育園時代のとある時から自分の都合だけで彼女をコントロールするのを出来るだけやめようと努力した。取り敢えず彼女が興味を持った事は多少お行儀が悪くても、どうするのか見てみた。そこにはきっと彼女が興味をもってそれをやる理由があるからだと思ったからだ。
おかげさまでかなり大変な事はあったけれどもある意味面白い子どもに育った。その面白さは私のビデオ・写真・日記で記録されているが、彼女自身、その私が付けた育児日記と写真やビデオを見ては大笑いしている。
そしてその個性は、私の子どもの頃と全く違った。
そして、今では思春期で色々と彼女自身抱える想いもあるだろう。しかし理由を聞けば「彼女なりに考えているんだな。」と感じる事もある。
勿論、社会通念上、ダメな事はある。そこはきちんと伝えている。親としてこうして欲しいという想いも無い訳ではない。勉強をもっとして欲しいと正直思うことなんてしょっちゅうだ。しかし、私自身彼女に注意される事も多い。そしてその指摘は至極真っ当である。
お互いさまだ。
歳とともに新しい物を受け入れる事は難しくなってくるような気がするけれど、枠を外してみるとまだまだ私の未知なる世界は広がっているのかも知れない。
そんな彼女は今あつ森の花火大会を見ている。さてと私も、今からあつ森花火大会を見に行こうかな。