見出し画像

「普通」という幻を追っていた 既婚バイの覚え書き

子供の頃から、いつも「普通」に憧れていました。
どんな時でも男の子らしく、自然に振る舞える「普通」の存在になりたくて、仕方がなかった。
けれど、そうなれないことは自分が一番よく分かっていました。
女子にも男子にも惹かれる僕は、「普通」ではないのだと、自分で自分自身を無意識にカテゴライズしていたから。
どんなに仮面を被っても、その下には世間一般のマジョリティーから外れた自分が存在している。
他人に見せる顔を偽ることはできても、自分の本心までを騙すことは不可能でした。

それでも、僕は「普通」の存在になろうと努力を重ねました。
何故なら、そうなることこそが「幸せ」なのだと思い込んでいたからです。
「努力」の詳細については、別の記事に詳しく書いたので割愛しますが、一言で言えば、自分の「男性性」を誇張し、それ以外の部分に蓋をしたのです。その「努力」は、高校生の頃から始まり、ほんの数ヶ月前まで続いていました。
これが良かったのか、悪かったのか、今はまだ答えが出せません。
でも、その結果として、現在のパートナーである奥さんと巡り合い、愛し合えたのは事実ですし、そのこと自体に後悔は全くない、ということだけは明言できます。

今の僕はもしかすると、外側から見たら「普通の男性」に映るかもしれません。
定職に就いていて、結婚もしていて、子供には恵まれなかったけれど、夫婦二人で家庭を築いている。
けれど、一枚皮をめくると、そうではないことが分かります。
僕はバイセクシャルで、メンタル疾患を持っており、おまけに現在休職中の身です苦笑
今の自分は、あの当時理想に掲げていた「普通の人生」とは、少し違った生を生きている。
でも、さらに皮をめくると、自分のセクシャリティについて奥さんや友人、家族へカミングアウトすることに成功し、ありのままの自分でいられる居場所をいくつか見つけられた僕が現れます。
この状態を、果たして「幸せ」か「不幸」かのものさしでジャッジできるでしょうか?
そもそも審判は誰?

僕は物事を断言するのが得意な方ではないのですが、これだけは誓って言うことができます。
世間一般が言う「普通」は、ただの幻に過ぎません。
それは単に、マジョリティーを「普通」という言葉に言い換えただけ。
今思えば、「普通」になろうと懸命だった僕は、蜃気楼を追いかけていたようなものだった。
そもそも、男らしさ、女らしさという概念自体が幻想でしかありません。
結局のところ、自分が「幸せ」か「不幸」かは、目には見えない世間という審判ではなく、本人にしかジャッジできないのです。

「普通」というフィルターを外してみると、世界は途端にその色を変えます。
それはまるで、モノクロの世界が鮮やかに彩色されたようなものです。
だからきっと、多様性の象徴が虹であることは偶然ではないはず。
フィルターを外した世界では、同性愛者も異性愛者も、バイセクシャルもアセクシャルも、心や体に障がいを持っている人もいない人も、皆等しく平等な存在です。
それぞれにそれぞれの色があり、調和を保っている。
その世界で本当に意味があるのは、「自分を肯定できるかどうか」、その一点だけだと僕は考えています。

…と、偉そうに言っている僕ですが、先述した通り現在は目下仕事でやられたメンタルを修復中苦笑
低過ぎる自己肯定感と格闘しながら、少しでも自分らしくあろうとジタバタしているところ。
でも、僕はもう幻の世界に戻るつもりはありません。
目の前に、その何倍も魅力的な、フルカラーの景色を見つけられたから。

※相互フォローしてくださっているnoterさんの記事や、友人との会話に感化され書いてみました。
(前回、「再休職」の記事にリアクションしてくださった方、コメントを寄せてくださった皆さん、本当に有難うございました。少しずつ体力を回復しながら静養しております!)

「LGBTQ+」当事者同士が繋がる・共感し合える場として、共同マガジン「ゆるく繋がるLGBTQ+座談会」を立ち上げました。無料でどなたでもメンバーになっていただけるので、ご参加希望ございましたら、ぜひお気軽にコメントください!