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「年を取った」と喜ぶ午後

年を取った。
何かをやろうとして移動し、何をするつもりだったのか忘れてしまうこともある。ヤカンを火にかけ空焚きし、同居していた息子に「危ないからお湯沸かすな!」と叱られてから10年経つ。その後電気ポットに変え、彼も独立した。

今朝は棚の整理をしていて昔の年賀状を見始めてしまい、懐かしい面々の言葉に釘づけになってしまった。
クリスマスプレゼントの丁寧なお礼が書いてあったが、それが誰なのか思い出せない! プレゼントを贈るほどの相手なのに、思い出せないなんて!
昔のできごと、昔のやりとり、昔の友人、昔の私。
それをみんな忘れてしまうのか。

どんな話をしていたのか忘れている。親しい相手との話題も。
でも、今でもつきあいの続く相手とは、どうして続いているのだろうか。
嫌な思いをして別れた人はとても少ない。
何も起こらずに、会う機会が少なくなって、疎遠になることがほとんどだ。
親子であっても、何年も会わないとか、ずっと疎遠だという人たちもいる。
逆にずーっと時間をともにする家族もある。
これは何が違うのだろうか。

「今」が途切れると疎遠になってしまうのかな、と思う。
途切れそうになったとき、電話をしたり、LINEをしたり、手紙を書いたり、
年賀状を出したりしたら、時間が続くのかもしれない。
何十年も前の年賀状を見ながら、「どうしているのだろう」と思いながら、FACEBOOKで検索すると出てきた。友だち申請を出すとすぐに返信があった。お互いの生存確認ができた(笑)。

私の人生の岐路で、サポートしてくれた人たちが大勢いる。
みんなどうしているかなあと、思い出す午後。
忘れたこともたくさんあるけど、忘れられない人との出会いも出来事も、
たくさんあったなあと思い出す午後。
紙片に走り書きがあるだけで捨てられないタチの私には、
自分のノートが山ほど残っている。
そこには昔の自分が棲んでいて、久しぶりに出会うことができる。
今日は、忘れてしまった自分と出会い、
「年をとったなあ」と喜ぶことができる午後だった。

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