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撮る前から決まっている、という話

写真を撮る時、撮る前から完成図が浮かぶことがあります。これは必ずしも良いことではなくて、場合によってはその浮かんだ完成図に引っ張られて自由に撮影できない、ということがあります。

Instagram的な写真

完成図に引っ張られるというネガティブな感覚を持つ時に共通しているのは、よく見る構図や既定のフレームワークにハマったイメージが生まれた時という点です。平たく言うと、ベタな写真、良く見る教科書通りの写真が浮かんだ場合に、自分の工夫が介在する余地がなくなる感覚になります。観光地の写真で同じような写真が量産される、その中の一枚を撮影することに魅力を感じないのも同じ理由です。
(そのような写真を否定するわけではありません。好みの問題です、悪しからず。)

私はよくinstagramで人の写真を見ますが、フォローしていなくてもいいね数が多い写真がタイムラインに出てきます。そうすると、どの写真がウケが良いか、バズるのかの傾向がわかってきます。
そのためか、被写体と向き合った時に「Instagram的な構図や色味」が浮かび、その時点で自分が撮りたいと思ったものと違うものに引っ張られてしまうことがあります。このバイアスに負けた時点で、その写真がどれだけ良いものであろうと自分の中では「自分がつくった写真ではない」という想いが拭えなくなるというジレンマがあります。

技術<被写体

では逆にどのような場合に満足のいく写真が撮れるのか。
もちろん、いつも被写体に対して何かしら意図を持って構図や露出、タイミングなどを考えて撮影します。ただし、そのような技術からはじめるのではなく、ただ被写体に魅力を感じて思いのまま、直感的に撮る時の方が満足いく写真になることが多いということに気づきました。
ここで大事なのは、決して技術軽視をしているわけではなく「技術は手段であり、第一にくるのは被写体に対する自分の直感的反応である」という点です。細かなニュアンスの違いかもしれませんが、技術に頭を使う比率が高くなるほど、その写真の魅力が薄れていくような感覚になります。
この文章を書きながら、レンジファインダーという機能に魅力を感じる理由も改めて言語化できた気がします。構図から考えるのではなく、被写体を見ることに集中できる点でLeicaは優れているんだろうなあと。

撮る前から決まっている

極端な話、技術や他者評価を基準に撮影した写真と、自分の感性で撮影した写真が結果として同じだったとしても、前者の写真を気にいることはありません。これは自分にとって写真はアウトプットが100%ではなく、撮影までのプロセスも同じぐらい重要だからです。
それ故か、私が気に入る写真は撮影前から直感的に撮りたいと思って細かな構図などを考えずに撮ったものであることが多いです。「撮影してみたら面白い絵になるかな?」ではなく「これは撮影したい!」から始まる写真は後から見ても満足いくものになってることが多いのが面白いところです。
仕事ではなく趣味で写真撮影しているからこそだと思いますが、つくづく自己満足で贅沢な趣味だなあと感じます。

最後に湯河原幕山公園の写真を

下記の写真は先日湯河原の幕山公園に行った時に撮影したものです。一部咲きの梅林や白みがかかった山の風景がとても綺麗で、普段はあまりやらないモノクロ表現がぴったりな風景でした。どれもこの記事で書いたようなプロセスを大事にした結果撮影できた、自分にとって記憶に残る写真なので載せておきます。

一番のお気に入り。
梅の木の隙間から除く白みがかった山の雰囲気が印象的。
一部咲きの梅。日当たりが良く常に逆光の環境でしたが、それが良い雰囲気を醸し出していました。
summiluxのとろみが良い感じ。
こういう無秩序に生え散らかした草木が自然らしくて好き。
見上げた時に枯れ木のシルエットがかっこよかったので暗部を強調して撮影。

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