自分の映画には、楽しい演出と好きな役者を/コロナ禍の夜桜花見
数日前のこと。近所に住んでいる前職時代の先輩と、互いの仕事終わりに近場の小さな公園で夜桜を見ながら缶ビールを飲んだ。みんなで集まって盛り上がる花見は昨年に続いて難しそうなこともあり、これはこれで今年ならではの花見として貴重な経験なのかもしれない、とよくわからない感慨を覚えながら満開の桜を見上げた。
話題はあちこち飛んだが、その中のひとつに前職での働き方があった。同じ部署で働いていた時期、いま思えばあり得ないような激務をしていた。連日23時まで働いてそのあと飲みに行き(自分の意思ならもちろんよいが、ほぼ強制だったりした)、2時過ぎに帰宅して翌朝7時からまた働く、みたいなことを当たり前のようにやっていた。休みも不定休。プライベートの予定は組みにくいし、組んでも何かあればすぐに休みが返上になる。休日だろうが深夜だろうが、仕事用の携帯電話が鳴った。当時のめちゃくちゃな働き方を振り返りながら、「信じられないよな」と苦笑いを交わした。
幸い、現在は常識的な働き方ができている。その大半を忙しい部署で過ごした20代を思い返すと、「仕事がすべてになり過ぎていた」という反省がある。割り振られた役割を果たそうとすると、どうしてもブラックな働き方になってしまいがちな仕事だった。そうなると、生活が仕事に塗りつぶされてくる。仕事自体はやりがいがあったとしても、プライベートの領域まで仕事が占め始めると、いろいろな限界が出てくると身をもって知った。
常識的な働き方をしながら趣味や交友にも時間を割くことができている現在、最も優先したいのは「楽しく生きたい」ということだ。それなりに意識高く働いていた時代から、一周まわって子どものような価値観に戻った。意識はほどほどの高さでよい。その分、自分の人生を楽しく生きたい。
近所のお寺の桜。日々散歩が楽しい。
これは仕事の手を抜く、という意味ではない。仕事には引き続き全力投球しつつ、しかしそれだけに依存はしない、仕事だけに時間を取られ過ぎないようにしたいということだ。仕事に好き嫌いの感情を持ち込むことはしない。ただ、仕事以外では嫌いなことはできるだけ排除したいし、好きでない人間と付き合うことはしない。できるだけ自分が楽しいと思えることをして、楽しい人間関係の中に身を置きたい。楽しく生きたいとは、楽をしたいということでもない。しんどくても楽しいことはありえるからだ。
愛読書『ロバート・ツルッパゲとの対話』に、以下のような文章がある。
"俺の世界という映画に登場するのは、俺が好きな役者だけで構わないと思っています。人生は上映時間が80年くらいの一本の映画です。世界の人口と同じ数だけあるほかの映画館では、別の映画が上映されている。その人と俺がかかわったことがあれば、どちらのスクリーンにも同じ日の場面でお互いが映っていることになります。自分の映画にはたくさんの好きな俳優を登場させたい。自分も他人の映画に、できればエキストラではなく、愛される役で登場したい。”
楽しく生きる、とはこれに尽きるんじゃないかと思う。自分の映画は楽しく演出したいし、自分が好きな役者をたくさん登場させたい。嫌いなことをする場面はできるだけ少なくしたいし、好きでない俳優は無理に起用しなくたっていい。そして、自分の映画に重要な役で出演してもらった人の映画には、できれば自分もいい役で出演したい。わかりやすくてとてもいい。
何の話をしていたのか、結局よくわからなくなってしまった。とりあえず、いまはとても楽しく生きることができている。引き続き、楽しく生きられるようにしたい。