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対話について | noteの一側面

対話とは何だろう。対話は会話の一種である。私たちは、日々誰かと会話をする。何か些細なトピックについて言葉を交わす。しかし、これは対話ではない。対話とは、より本質的といえる、自らが思考をした何かについて、互いが言葉を与え、受け取り発信し合うような行為だと考えられる。その行為において、対話者それぞれは、一個の人間として振る舞う必要がある。人が何か外在的なアイデンティティの一部もしくは役割を全基盤として思考または言葉を構築する場合、それはその人自身の根幹とは外れた軸から形成された何かをやり取りすることになってしまう。プライベートの場で会社の役職として意見をするような場合はそれに当てはまる。当人にその軸が外在していることが認知されていなければ、本当の対話はできない。また、仕事上での話し合いは、役割を前提としたものであるし、インターネット上でのやり取りの多くは、自分を提示するためのラベルは外部に分かりやすいものであるか、そもそも提示する必要がない。このような状態でのやり取りでは対話は生じない。そして、自分の役割や立場といったものを疑問なくすんなりと受け入れる傾向がある人々と話をすると違和感を感じることがある。自分自身にも当てはまることだが、一つの属性を自分のすべてとして認識してしまうと、本来の自身としての思考を形成できない。やり取りを通じて対話者それぞれの在り方が相互に影響し合うこと、これが本来の対話であるように思う。対話は少ない言葉では難しく時間を要するものであり、日常生活の中で対話は少ない。それでも対話ができないというのは苦しいものだ。
noteのようなプラットホームは、自身の思考を表出できる場として対話を生み出していく可能性が高い。noteにおける一つの側面としてのこの機能は一個人を形成しているであろう概念の断片の多くを発信することができる。発信したことにより、そこからやり取りが生まれて対話へとつながっていくはずである。
他にも立場や役割に依らない場をもっと見つけることができるなら、生きづらさは緩和されていくのかもしれない。


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