短編 『居場所』
空色の真空に微かな空気の音が木霊する。私たちの全身は、視界を覆う生命の漲流と体内の風船たちが生み出す律動の狭間で揺らめき続けていた。目下に広がる綾なす草原の上を、小さな羽を持った妖精たちが飛び去って行く。時折通過する灰色の円盤の背の上では日の光が白く踊っている。名を忘れたい者たちは、名を知らない者たちに屈服する。地平の鏡の裏では、壁の枷は融解し、私たちは星と一つになる。
左の手首の上で主張する現実が私たちの宇宙をかき消した。
バディに合図をし、右手の親指でBCDにゆっくりと空気を入れる。呼吸のリズムを変えないように努めながら、光に向かって徐々に浮上する。
海面から顔を出し、ボートの手摺に手をかけ、重たい身体を持ち上げる。私とバディは、ボートの上に座り込み、濡れた身体を休めていた。午後の日差しは私たちを優しく包み込んでいる。仄かな波の音と潮の匂い、カモメたちの鳴き声。穏やかな海の優しさが私たちの沈黙を加速していく。1時間程そうしていただろうか。私たち二人は示し合わせたようにスッと立ち上がって、船を進める準備を始めた。
船着き場に到着し、係留作業を終えると、私たちは海岸沿いのバーへと入った。ほとんど客のいない店内では、白い髭を生やした60代くらいの不愛想なマスターがグラスを拭いていた。私たちはビールとフレンチフライを注文し、傾いた太陽を背にしてカウンターに腰かけた。
「明日はもっと沖の方で潜らないか」
不意にバディが聞いた。
「ああ、そうだね」
私も賛成だった。
夕方のテレビのニュースが、嵐の到来を伝えていた。今夜から明け方までは激しい雷雨となるようだ。水平線を張ってくる鼠色の煙が窓の外に見えた。家の中の不規則な軋りが、暗愁を充満させる。カタカタと音のする部屋の中で、テレビの音声が何かを語っている。
「— 本日、大型のホホジロザメが太平洋沖で捕獲されました。体長は約7.5メートル、年齢は60歳程度と推定されています。平均的なホホジロザメの体長は4.6メートルだとされているため、今回捕獲された個体は非常に大型で —」
「— 16年前、この地域でダイバー二人がホホジロザメに襲われた事故がありました。被害者の証言とその特徴が一致していることから、同様の個体ではないかと考えられています —」
「— 続いてのニュースです —」
リモコンを探り当て、テレビの電源を切った。真っ黒の画面に映る私の右腕は微かに動いていた。
強い日差しが青空を貫通する。船に乗り込んで3時間程沖へ進んでいったところで私たちはアンカーを下ろした。ボンベを取り付け、背中から海中へと飛び込んだ。少しづつ深度を下げる。足元に見える魚の群れに向かう。日の光が徐々に薄くなり、辺りの青が暗さを増してくる。深度20m辺りで停止する。その周辺をゆっくりと泳ぎ始める。前方に、大きな翼を羽ばたかせながら迫ってくる優雅な姿を2つ認めた。マンタである。私たちは停止し、その大きな身体が近づいてくるのを待った。翻りながら独特の白い模様を描いた黒のベールが通り過ぎていく。地球という生命の中に私たちが組み込まれているのを感じる。波の揺らぎを受けながら30分近くが経過したところで私たちはボートへと戻ることにした。
突然、視界の片隅に黒い大きな影がちらついた。その方向に目を向ける。クジラか? その姿は遠い。泳ぎは速いようだ。その形を目を凝らして確認する。三日月状の尾びれ。サメだ。少しずつこちらへ向かってくる。バディと合図をし、その場所から動くことを止める。クジラと見紛うほどの大型のホオジロザメ。その大きさは先ほどのマンタたちと比較にならない。背鰭の先が欠けている。黒々とした目が見ている先はどこなのだろうか。無数の牙を剝き出しにしながら笑ったような表情を浮かべる。私たちは、頭上を通過していくまでそのサメをじっと見つめていた。巨大な鼠色の身体が通り過ぎる。私たちの姿は認めなかったようだ。その姿が小さくなりやがて見えなくなる。バディは先に浮上しろと私に合図を送った。ゆっくりと上昇していき、海面へと出た。そこからボートへと泳いだ。重たい身体を何とかボートの上に持ち上げる。バディも海面を泳いでボートへと向かってくる。ボートまであと2メートル —。
突如、海面に先のない背鰭が現れた。揺れる黒い影が遠方からとてつもない速度で迫ってくる。不意に私は叫んだ。まずい。
手を伸ばせばすぐにバディに届く。早く。私は手を伸ばした。バディの手を掴む。その瞬間、白い二本の鋸がバディの左足を飲み込んだ。海面から見えたその大きな口は、人間の存在を瞬く間に拭い去ってしまう。その巨体はまた海中へと消えていく。私は、バディを何とかボートに引き上げた。
スターンボードにバディを寝かせ、私は急いで操縦室からロープと救急箱を持ってくる。真っ赤な血液が船上に広がっている。血で滑る手に力を入れ、ロープで大腿部を締め上げる。大丈夫だぞ。ぐったりとしたバディに声をかける。救急箱から包帯を取り出そうとしたその瞬間ボートが大きく跳ね上がった。視界に黒い影が見える。転覆は免れたが、その衝撃で私は甲板に身体を打ち付けた。
揺れる船の上でよろめきながら立ち上がり救急箱を探した。どこだ。手の届く海上に浮いているのを見つけた。包帯が必要だ。私は身体を乗り出し、手を伸ばした。その瞬間、救急箱と私の右手の前腕が消し飛んだ。海底から発射されるミサイル。あの目は私たちを見ていたのだ。
恐怖に震える身体をなだめながら、もう一本のロープを操縦席から探し出す。夥しい量の血液に床が滑り出す。見つけ出したロープを肘の上の辺りで左手と口を使って結ぶ。バディの手当てを・・。早く船を出さなくては。
他の船と出会うことを期待し、発煙筒をたく。そしてエンジンをかける。私は、最大速度で船を走らせた。30分ほど走らせたところで、バディが操縦席まで身体を引きずってきた。
「大丈夫か?」
「こっちのセリフだよ」
「ありがとな」
「何言ってんだよ。休んでろよ」
「お前も休め。血が止まってない。貸してみろ」
バディが腕のロープを強く結び直した。まだバディは大丈夫そうだ。安心感からか、急激な眩暈に襲われ、私の意識が遠のいた。微かな意識の中で男が船を操っているのが見えた。そこからの記憶はほとんどない。
私が17歳の時に父が初めてダイビングを教えてくれた。普段、漁業を営んでいる父はこの海に精通していた。初めて潜った海は夢を見ているように神秘的だった。船の上で過ごすことが多かった私にとって海中の風景は新鮮だった。その時からこの透き通る海の全てが私と父だけのものだった。口数の少ない父とは会話はあまりなかったが、言葉のない世界で多くを語り合っていた。
私が目覚めたのは、病院のベッドの上だった。重い頭、乾いた喉、ぐるぐる巻きの包帯。震える左手でナースコールを鳴らした。
「目が覚めたんですね!」
甲高いナースの声が頭に響く。
「今お医者さんを呼んできます」
やって来た医者は白髪の丸い眼鏡をかけた優しそうな老人だった。彼は、私の右腕の肘上から下がなくなったこと、もう少し遅かったら助からなかったことなどを淡々と説明し始めた。
「バディは?」
説明を遮って私は聞いた。
「……すみません。先に言うべきでした。
……間に合いませんでした」
前日の嵐が嘘のように空は晴れ渡っていた。少し疼く右腕を抑えながらベッドから這い出る。疎らに生えた草の露から反射した朝の日差しが、ビーズのように窓の外から入り込んでくる。あの朝も似ていた。ヤカンに水を満たし火にかける。目分量で測ったコーヒーの豆を手挽き用ミルに入れる。
「コーヒーを挽いてくれないか」
私は家の奥に向かって大きな声で尋ねた。
「……すぐ行くよ!」
奥から答えが返る。バタバタと音を立てながらキッチンへ駆けてくる。
「おはよう、今日は遅かったね」
「少し寝すぎてしまったよ。いい天気だ。これなら船を出せそうだな」
「ほんとうかい」
「ああ。支度をしといてくれ」
コーヒーを挽き終えた息子が支度をしに奥へ下がっていった。私はコーヒーを淹れ、窓の外を眺めながらゆっくりと飲み終えた。
「さあ、行こうか、相棒」
輝く日差しが無言の二人の陰影を作り出す。そのシルエットが向かう世界、無言の星が語らう場所。そこだけが私たちの居場所だった。
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