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センスとは

一般的に「センスがある」というような表現が用いられる場合、何か漠然とした言語化できない良さを持っていて、逆に「センスがない」という場合、何かが決定的に欠けているがその何かが明らかでないという曖昧な気持ち悪さがある。センスという語は、英語での"sense"に由来するが、"sense"は、一般に「感覚」と訳される。この「感覚」とは、五感のことである。それでは、センスという語は感覚と同義なのかというとそうではない。感覚および五感とは、身体性の側に位置する働きであり、もともとは身体の保全という役割を担う。外界からの危険を、様々な感覚を通して素早く知覚することで身体を守ることが可能となる。したがって、感覚という語が示すのは、あらゆる刺激を知覚する身体的な働きである。しかし、一般的に芸術やスポーツの分野で用いられるセンスという語は、身体的な働きを示しているわけではない。視力もしくは聴力の高さが画家、音楽家の能力を表すのではないように、センスとは身体の側にある概念ではなく、精神の側に位置した概念である。そしてこのセンスは、精神的に「感ずる」という働きを意味するため「感性」に対応する。感性は、感覚より高次にある総合性を包含した作用といえる。したがって、センスおよび感性とは、感覚によって知覚された刺激が、個人の内側でその個人の経験や思考、記憶などと調和性を生み出す、または生み出させる力であると言える。

Creativity/クリエイティビティと呼ばれるものの中でセンスの有無が評価されることが多い。Creativity/クリエイティビティという語が、人々に想起させる能力というのは、生まれつき備わった、まっさらな平地に真新しい存在を表出させる力のように思う。しかし、センスを考えてみれば、人にとってのCreativity/クリエイティビティが、まったく真新しい存在を生み出させるのではなく、既存の感覚をつなぎ合わせ、どのような調和性を持たせることができるのかという観点に収束していくのがわかる。もちろんそういった調和性を生み出す作用を先天的に身に着けている場合が多いけれど。

盲目的な言葉の使用からあらゆることの本質が分からなくなるから、言葉の持つ広がりの違和感に敏感でありたい。

感性が語られるような場面では、意識が感性へと集中していますから、感覚的に捉えられた刺戟は人格の内奥へと反響していく傾向を示します。

『美学への招待』 佐々木健一

感性を見れば、(中略) 過去の経験の記憶や、考え方のパターン、概念的な知識など、多様な要素が現実の鑑賞体験に関与し、それを重層的な和音のようなあり方のものにしています。

『美学への招待』 佐々木健一

怠惰な知性は、センスを持ち出して、分析することを禁じようとするわけです。

『美学への招待』 佐々木健一

≪感ずる≫ということが、(中略) きわめて高次の浸透力をもった精神の働きである (後略)

『美学への招待』 佐々木健一



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