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羊と罪について
ヒツジは、鯨偶蹄目の反芻亜目、ウシ科ヤギ亜目に属する動物である。紀元前7000~6000年ごろ、古代メソポタミアにおいて家畜化が行われていたとされ、紀元前4000年ごろまでには、西アジアからヨーロッパ、北アフリカ、中国に及ぶまで家畜化が行われる場所が広がっていった。旧約聖書、創世記におけるカインとアベルの物語では、神にとっての羊が特異的なものであることが記される。出エジプト記では、神による十の災いのうち十番目の災い(長子を皆殺しにする)を避けるため、子羊の血が使用されたとされる。新約聖書においては、イエス・キリストこそが神の子羊であると説かれる。そして、ヨハネの福音書では、イエスの流した血により世の罪が取り除かれたと記しており、これは子羊を媒介として神と人との契約がなされ人類が救済されたということを意味している。人類との歴史的な関わりを考えてみると、羊が特別な存在であるように思われる。旧約聖書を正典とするユダヤ教では、従来、罪の贖いのため羊を生贄としてささげ、新約聖書においても至る所で、羊が登場する。例えば、ヨハネの福音書では、キリストは、人間の間違を犯しやすく、迷いやすい性質を羊に例えている。羊の象徴性は興味深いところが多い。
人間の性質が羊とされたように、人は絶対的な存在になることはできない。宗教によって、「罪」の厳密な解釈は異なっている。仏教では、五悪罪や十悪罪、ユダヤ教では、ペシャ/メレッド、アヴォン、ヘットなどが説かれている。人類にとって罪とは何なのか、それとどう向き合うべきなのか、罪からの救済とはいかなるものなのか、これらのことに関しては根本的な本質があるのではなく、個々人の労苦に依拠している。解決のない問題と常に向き合っていくべきだと感じる。
一般論をいくら並べても人はどこにも行けない。
村上春樹
僕は知者として行動したんだよ。ところが、それがつまり僕を破滅さしたんだ
フョードル・ミハイロヴィッチ・ドストエフスキー
不思議にも彼は突然、それほどまでに愛されているということが、苦しくも切なく感じられた。そうだ、それは奇妙な恐ろしい感触だった
フョードル・ミハイロヴィッチ・ドストエフスキー
それは一種の発作のように、突如として彼を襲い、彼の心の中で一つの火花をなして燃え上がり、たちまち火焔のごとく彼の全幅をつかんだのである。そのせつな、彼の内部にあるいっさいが解きほぐれて、涙がはらはらとほとばしり出た。
フョードル・ミハイロヴィッチ・ドストエフスキー
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